1844年、パリで二人の若いドイツ人が本格的に議論を交わした。一人は哲学を学び、政治的な文章を書いて各地を転々としていたカール・マルクス。もう一人はイギリスの紡績業で働き、工場地帯の生活を見てきたフリードリヒ・エンゲルスである。
二人はともに資本主義を批判した。しかし出発点は大きく異なる。マルクスは大学で哲学を学んだ著述家であり、エンゲルスは裕福な繊維商人の息子として企業経営に関わった。
資本主義を批判する二人のうち、生活のために工場経営の仕事を続けたのはエンゲルスだった。 そこで得た収入がマルクスの研究生活を支え、工場や世界の綿花取引に関する知識も二人の経済分析へつながっていった。
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19世紀後半の二人の写真をWikimedia上で合成した画像 / Wikimedia Commons / Public domain。二人が同じ場所で並んで撮影した写真ではない。
哲学を学んだマルクスと、工業都市へ送られたエンゲルス
カール・マルクスは1818年、当時プロイセン王国領だったトリーアで生まれた。ボン大学とベルリン大学で学び、法律や哲学に関心を持った。1841年には哲学で博士号を取得し、のちに新聞記者・編集者として活動する。しかし政治的な批判を含む著述は当局の監視や出版停止を招き、安定した職を得るのは容易ではなかった。
フリードリヒ・エンゲルスは1820年、ドイツのバルメンに生まれた。家族は繊維産業で財を築いた商人・工場経営者の一族だった。エンゲルスは父の希望で商業の実務を学び、1842年に英国マンチェスターへ渡る。そこには父が出資する紡績会社エルメン・アンド・エンゲルス(Ermen & Engels)があった。
マンチェスターは産業革命を代表する都市だった。綿花が港から運ばれ、機械で糸になり、工場と商人が世界各地の市場につながっていた。その一方、工場労働者の住居や衛生状態、長時間労働、貧困は深刻な社会問題だった。
エンゲルスは経営者の側の仕事をしながら、工業都市の労働者がどのように暮らしているかを調べた。1845年に出版した『イギリスにおける労働者階級の状態』は、自分が見聞きした状況だけでなく、新聞や公的報告書などの資料を使い、産業化の社会的影響を批判的に描いた著作である。
ただしこれは当時の英国労働者の生活をすべて公平に測定した現代の統計調査ではない。著者の政治的な立場を反映した資料でもある。だからこそ、当時の都市や工場の記録と照らして読む価値がある。
1844年の出会いは、二人の仕事を変えた
二人は1842年にも短く顔を合わせたが、本格的な協力の始まりは1844年のパリでの再会とされる。
エンゲルスが書いた『国民経済学批判大綱』は、資本主義の経済制度そのものを批判的に検討した文章だった。マルクスはそこに強く関心を持ち、二人は哲学と経済、歴史をどう結び付けて考えるか議論を重ねるようになった。
翌1845年にはマンチェスターのチェタムズ図書館で、二人が同じ机に向かって本を読んだことが記録されている。その机は現在も図書館に残っている。
チェタムズ図書館の公式資料には、1870年にエンゲルスがマルクスへ手紙を書き、25年ほど前に二人で座った閲覧室の机を懐かしんだことが紹介されている。
のちに広まったマルクス主義を、二人が最初から完成させた一つの体系として考えるのは適切ではない。1840年代の著作には、既存の哲学や社会主義思想との論争が多く、彼らの考え方も執筆を通じて変化していた。
『共産党宣言』は依頼されて書いた政治文書だった
1847年、マルクスとエンゲルスは共産主義者同盟という政治組織の活動に関わった。同年11月の同盟大会で、二人は綱領をまとめるよう依頼された。
これが1848年2月にロンドンでドイツ語出版された『共産党宣言』である。

1848年刊行の歴史的刊本。マルクス・エンゲルス著 / Wikimedia Commons / Public domain。後世の翻訳版の表紙ではない。
この冊子は、長い学術書を何年もかけて完成させたものではなかった。政治組織の立場を示すために作られた綱領文書で、同時代の労働者運動や革命運動へ向けて書かれている。
マルクスとエンゲルスは、産業革命で資本家と賃金労働者の関係が広がることに注目した。彼らは、資本主義には生産を大きく発展させる力がある一方、社会のなかに階級的な対立も生むと論じた。
ただし宣言が1848年に出版されたからといって、その直後のヨーロッパ各地の革命を二人が引き起こしたわけではない。1848年の革命にはそれぞれの国の政治体制、経済危機、民族運動など多くの背景があり、冊子の最初の読者も限られていた。
『共産党宣言』が組織の依頼で書かれた経緯を知ると、後世に有名になった本が、出版当初はどのような役割を期待されていたのかが見えてくる。
ロンドンで研究するマルクス、マンチェスターで働くエンゲルス
1848〜49年の革命運動が失敗に終わると、マルクスは1849年にロンドンへ移り住んだ。以後、亡くなるまで英国で暮らすことになる。
安定した収入に恵まれず、妻のイェニーや子どもたちと経済的な困難を経験した。新聞記事の執筆などで収入を得ることもあったが、家計はしばしば苦しかった。
一方、エンゲルスは1850年にマンチェスターの家族の紡績会社で仕事を再開した。1864年には共同経営者となり、1869年に持分を売却して事業から退いた。ドイツ歴史博物館は、この実務生活とマルクスへの経済的支援を明確に記録している。
二人は離れた場所に暮らしていたが、膨大な手紙をやり取りした。マルクスは経済学や歴史の議論だけでなく、工業の実際の費用や価格、企業運営についてもエンゲルスに尋ねることができた。
2017年の経済思想史研究では、エンゲルスが綿工業の企業活動から得た知識――製品の流れ、機械の減価償却、再投資、世界市場の需要の変動など――が、マルクスの『資本論』にも影響したことが論じられている。
エンゲルスは単に生活費を渡しただけではない。自分が批判していた産業の実情を、研究へ提供する立場にもいた。

19世紀の写真・撮影者不詳 / Wikimedia Commons / Public domain。『資本論』の刊行後の時代の肖像で、1840年代の姿ではない。
マルクスは、資本主義の何を明らかにしようとしたのか
マルクスが研究の中心に据えたのは、資本主義の下で商品がどのように生産され、賃金や利潤がどこから生まれるのかという問題だった。
例えば工場主が機械や原料を買い、労働者を雇って製品を売る。そこで得られる利益は、単に物を高く売ったから生まれるのか。マルクスは、労働者が生産する価値と、労働者へ支払われる賃金との関係からこの仕組みを説明しようとした。
彼の剰余価値論では、労働者は自分の労働力を賃金で売り、労働力が生み出す価値のうち賃金に相当する部分を超えたものが、剰余価値の源泉となる。これが資本家による生産と蓄積を支える、という考え方である。
これはマルクスの経済理論の説明であり、現代経済学でその価値論が共通の結論として採用されているという意味ではない。現代経済学では価格を需要・供給、限界的な評価、生産要素の希少性、競争などから説明する枠組みも用いられる。
ただしマルクスの研究は、価格の計算方法だけを論じたものではない。誰が生産設備を所有し、労働をどう組織し、利益を再投資し、経済的な危機がなぜ起こるのかという制度全体を分析しようとした。
『資本論』は1867年に完成したのではなかった
1867年、マルクスは『資本論』第1巻を出版した。商品、貨幣、資本、労働力、剰余価値、工場制などが検討されている。後の長い研究につながる重要な著作となった。

2014年撮影:Illustratedjc。画像修正:Lämpel / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。刊行当時の写真ではなく、現存する初版本を撮影した画像。
しかし、マルクスが自ら完成させて出版できたのは第1巻だった。第2巻・第3巻の構想や草稿は残っていたものの、読者がそのまま読める完成原稿ではなかった。
1883年にマルクスが亡くなると、エンゲルスは遺稿を整理する仕事を引き受けた。第2巻は1885年、第3巻は1894年に出版された。
重要なのは、エンゲルスが単に紙の順序を整えたという話ではないことだ。原稿には執筆途中の箇所や異なる時期の草稿があり、何をどの順番で示すかを編集者が判断しなければならなかった。
ドイツのベルリン=ブランデンブルク科学アカデミーが進める批判的全集「MEGA」は、マルクスの草稿とエンゲルスの刊本を分けて調査している。研究者の間では、エンゲルスによる編集が理論の理解にどこまで影響したかが議論されている。
『資本論』第2・3巻は死後に編集されたという事実を知らずに三巻をすべて同じ性質の完成著作として扱うと、研究の実態を見誤る。
二人は同じ人物でも、完全に同じ考え方でもなかった
マルクスとエンゲルスは長く協力したが、著作のすべてを共同で執筆したわけではない。エンゲルスは単独でも『イギリスにおける労働者階級の状態』『反デューリング論』『空想から科学への社会主義の発展』などを著し、後の社会主義運動に大きな影響を与えた。
エンゲルスは軍事、自然科学、歴史、人類学にも幅広い関心を持ち、理論を一般の読者へ説明する仕事もした。マルクスの著作は長い経済分析に重点を置くことが多い一方、エンゲルスの著作には当時の政治的論争へ応じる文章も多い。
後世の研究では、二人の思想がどこまで一致し、どこから違いが生じたかという問題も検討されている。「マルクス主義」という一つの名前でまとめたとき、二人それぞれの著作を読み分けることは重要だ。
そして二人は、のちのソ連の五カ年計画や中国の改革開放を実際に設計した人物ではない。マルクスが亡くなった1883年、ロシア革命まではまだ34年あった。エンゲルスが亡くなったのは1895年で、やはり革命より前である。
彼らの問いは、現在どう読めるのか
マルクスは資本主義が発展させる生産力に注目すると同時に、そこで働く人々と資本を所有する人々の関係を批判した。エンゲルスは工業都市を実際に観察し、企業の経営に関わりながら、その分析へ知識と資金を提供した。
彼らの理論の予測がどこまで成り立つか、剰余価値論や歴史観をどう評価するかについては、多くの異なる研究や議論がある。一方、雇用、所得と資産の分配、労働条件、企業の所有と経営、経済危機という問題は、現在の経済史や経済政策の研究でも扱われている。
一人が机に向かって経済を分析し、もう一人が工業都市で企業の帳簿や商品取引に関わる。二人の仕事は同じではなかった。その違いが、19世紀の工場社会を考えるための共同研究につながったのである。
娘エリノアの回想や本人たちの書簡には、二人の家庭生活や友情の衝突も残されている。肩車するマルクスと、親友を怒らせた1863年の手紙を読むと、理論書には現れにくい人物像が分かる。