1850年、フリードリヒ・エンゲルスは英国マンチェスターで家族が関わる綿糸企業の仕事を再開した。
彼はカール・マルクスとともに資本主義を批判し、1848年には『共産党宣言』を書いていた。その一方で、日々の仕事では綿糸の取引や会社の経営に関わっていた。事業で得た収入を使い、ロンドンに暮らすマルクスとその家族を経済的に支援していたのである。

19世紀の写真・撮影者不詳 / Wikimedia Commons / Public domain。マンチェスターで働いていた1850年代の写真ではない。
裕福な繊維商人の家に生まれた
エンゲルスは1820年、ドイツのバルメンで生まれた。父は繊維産業の事業家で、英国の工業都市マンチェスターにある綿糸企業の共同経営者でもあった。
父の希望で商業の実務を学んだエンゲルスは、1842年にマンチェスターへ渡る。そこで目にしたのは、大量生産を支える工場と、それに従事する労働者の生活だった。
彼は工業都市で働く人々の住居や衛生状態、長時間労働などについて調べ、1845年に『イギリスにおける労働者階級の状態』を出版した。
工場を経営する側の家庭に生まれたからこそ、産業の仕組みを知っていた。しかし、企業の収益を得る側の人間が、その利益の背後にある労働条件を批判するという、複雑な立場にもいた。
マルクスの研究には、安定した収入がなかった
マルクスは1849年からロンドンに暮らし、新聞への寄稿や研究を続けていた。しかし収入は不安定で、家族とともに経済的な困難に直面していた。
エンゲルスは1850年にマンチェスターのエルメン・アンド・エンゲルス社へ戻り、商業の仕事に従事するようになる。1864年には共同経営者となり、1869年に自分の持分を売却して退いた。
ドイツ歴史博物館は、この時期の会社での職歴と、エンゲルスによるマルクスへの経済的支援を記録している。
二人の手紙には研究上の意見交換のほかに、生活費や健康、家族の問題も登場する。長く続いた仕事の関係は、学問上の協力だけでは成り立っていなかった。
会社で学んだ知識は『資本論』にも生かされた
商売を続けていたことが、彼の経済思想を理解するうえで重要な意味を持つ。
エンゲルスが扱った綿糸の商売では、原料の仕入れ、製品の販売、海外の需要、設備への投資、利益、価格の変化が日々の判断に関わった。
2017年の経済思想史論文は、企業での経験によってエンゲルスが商品の流れ、機械の減価償却、再投資、世界市場の動きに詳しくなり、それがマルクスの『資本論』の分析にも影響したと論じている。
例えば機械を購入した会社は、購入費用をすべて一度に製品へ転嫁できるわけではない。使い続ける間に機械が古くなり、修理や買替えの費用も必要になる。このような実務上の問題を、マルクスは資本が循環する仕組みの中で考えていた。
もちろんエンゲルスが工場経営の知識をすべて教え、マルクスはただ記録したという関係ではない。二人は互いの議論へ影響を与えた。経済研究の理論と、実際の商業活動の知識が結び付いていた点が重要なのである。
会社を退いた後も、二人の協力は続いた
1869年に会社を離れたエンゲルスは、1870年にロンドンへ移り、より多くの時間を政治活動や著述に使うようになった。
1883年にマルクスが亡くなると、エンゲルスは研究の未完成原稿を引き受けた。その結果、『資本論』の第2・3巻が死後に出版されることになる。
エンゲルスが資本主義を批判する文章を書く一方、自分は企業の経営に参加して資金を得ていたのは、彼の人生の複雑な一面である。単なる矛盾として片付けるより、19世紀の思想家が現実の工業経済の中でどのように生活し、研究していたかを示す事実として読むと、二人の関係がよく分かる。