1835年に出版されたイギリスの繊維工場の挿絵を見ると、広い室内の両側に何台もの織機が並んでいる。人々は機械の間に立ち、糸の状態や布の動きを確かめている。手で布を一枚ずつ織る昔ながらの工房とは様子が違う。

1835年刊行の書物に描かれた動力織機の工場。T. Allom画・J. Tingle彫版 / Wikimedia Commons / Public domain。当時の挿絵で、現代に再現撮影したものではない。
工場に機械が入ったことで、以前より大量の綿布を作れるようになった。しかしこの絵に描かれた変化は、機械の数だけではない。人々が働く場所と時間、家族の生活の仕方まで変わったことを示している。
産業革命の前から、人々は市場向けに働いていた
産業革命以前の社会を、誰もが自給自足をしていた時代と考えるのは正確ではない。イギリスには、商人から原料を受け取り、家庭で紡績や織物の仕事をして報酬を得る人々がいた。家庭内工業や問屋制家内工業と呼ばれる仕組みである。
市場が広がれば、商人はより多くの布を集めたいと思う。しかし家庭ごとに糸を紡ぎ、手織りで生産する方式には、作業の速度や管理に限界があった。
繊維工業では、綿花から糸を作る紡績と、糸を布にする織布がつながっている。片方の生産力だけが高まれば、もう片方が追いつかなくなる。紡績機や織機の改良が繰り返されたのは、そのためでもある。
1760年代以降、ジェニー紡績機、水力を使う紡績機、ミュール紡績機などが発達し、繊維を扱う仕事が大きく変わった。技術の導入は一度の発明で完了せず、複数の発明が組み合わさって進んだ。
水車のそばに人を集める理由
機械を回すには動力が必要だ。最初期の工場には水車を利用するものもあり、流れの強い川の近くに建てられた。水力を使えば、一台の動力源で複数の紡績機を動かすことができる。
しかし大きな機械を共同で使うには、作業する人が同じ場所へ集まる必要がある。機械と動力の管理、材料の供給、品質の検査、仕事の分担が一つの施設で行われるようになった。
こうして発達した工場制は、単に一軒の家の中に大きな機械を入れたものではない。労働者を雇い、原材料を仕入れ、作業時間を決め、出来上がった商品を市場へ売る組織だった。
やがて蒸気機関の利用が広がると、水力に強く依存しない工場立地も可能になった。ただし蒸気機関は最初からすべての工場で使われたわけではなく、普及は地域や産業によって異なる。
機械の導入によって一人当たりの生産量が増えると、布は以前より多く供給されるようになった。産業革命による生産力の上昇は、安価な衣服や多様な製品の普及にもつながっていく。
工場の時計に合わせて暮らす
家庭で仕事をしていた人々は、農作業や家事と組み合わせて働く時間を調整する余地があった。一方、工場では機械を効率よく動かすために、労働者が同時に働く必要がある。
工場の始業と終業、休憩、遅刻、監督が生活を左右するようになった。作業内容も細かく分かれ、一人の職人が製品の工程を最初から最後まで担当するとは限らなくなった。
賃金を受け取れることは、土地を持たない人にも収入の道を開いた。しかし賃金がなければ生活が成り立たない人は、仕事を失う危険にもさらされる。都市の住宅不足や衛生状態の悪化も、人が急速に集中した地域で問題になった。
工場主と労働者の利益は必ずしも一致しなかった。経営者は機械を長く動かしたいと考え、労働者は賃金と健康、休む時間を必要とする。その対立が、のちの労働運動や法制度の整備へ結び付いていく。

1892年頃のマンチェスター綿工場を紹介する歴史写真。産業革命初期の工場とは時代が異なる。撮影者不詳・1892年刊の書籍所収 / Wikimedia Commons / Public domain。
子どもは工場で何をしていたのか
18〜19世紀の繊維工場では、子どもも働いていた。細い糸を扱う作業や、機械の周りの仕事に子どもが従事することがあった。家庭が生活費を得る必要に迫られ、子どもが賃金を得る場合もあった。
Historic Englandが紹介する1832年の議会調査では、1804年生まれのサミュエル・ダウンが、10歳から亜麻工場で働いていた体験を語っている。彼の証言では、朝5時から夜8時まで働くことがあったという。これは一人の証言であって、すべての工場が同じ時間だったことを意味しない。それでも当時の労働条件の厳しさが分かる。
子どもの労働は産業革命が突然作り出したものではない。農村社会にも児童労働は存在した。しかし工場制は、子どもを規則的で長時間の雇用労働に組み込むことがあった。
19世紀にかけて工場での児童労働を制限する法律が整備されたが、それで一度に問題が解決したわけではない。教育制度の拡大、家計所得の変化、法律の執行、社会の価値観の変化などが重なって、子どもの働き方は少しずつ変わった。

1911年、米ミシシッピ州ヤズーシティの繊維工場で働く子どもたち。ルイス・ハイン撮影・米国国立公文書館所蔵 / Wikimedia Commons / Public domain。英国の産業革命初期ではなく、後の米国に残った児童労働の実例。
安い綿布の裏側に、奴隷労働があった
工場の中だけを見ていると、そこへ運ばれてきた綿花がどこで栽培されたかを忘れてしまう。
マンチェスターの科学産業博物館は、工場で使われた綿花の多くが、アメリカ大陸のプランテーションで奴隷化されたアフリカ系の人々によって栽培されたことを説明している。
機械化で安価な綿布が増えたことと、原料の供給を強制労働に依存していたことは、同じ歴史の中にある。紡績工場の効率化だけをもって、産業革命がすべての人を自由で豊かにしたとは言えない。
イギリスで製造された繊維製品は世界の市場へ輸出された。同時に、インドなど伝統的な繊維産業が発達していた地域との競争が激しくなり、関税や植民地支配も市場に影響した。
技術だけで世界の産業構造が決まったのではなく、国家の軍事力、貿易政策、資本の集まり方も大きく関わっていた。
生産力が増えた社会は、次に何を変えたか
19世紀には鉄道や蒸気船の発達によって原料を運ぶ費用が下がり、工場で作った品物を遠くへ売りやすくなった。石炭、鉄、機械、運輸、金融など、多くの産業がつながって発展した。
労働者は組合を結成し、労働時間の短縮や安全対策を求めるようになった。政治の側でも工場法や教育制度、社会保障について議論が進んだ。
産業革命は一つの年に始まり、一つの年に終わった出来事ではない。工場化が進んだ時期は国によって違う。日本でも明治期に機械製糸や紡績が広がり、戦後にはさらに生産と生活が大きく変わった。
一枚の綿布が安く作られるようになった背景には、機械、労働者、綿花の生産者、商人、投資家、国家がいた。工場は、これらの関係が一つの製品に集まる場所だった。