1933年2月、アメリカのミシガン州で銀行の前に人々が集まった。預金の引き出しが制限されたためだ。銀行口座に数字が残っていても、預けたお金を自由に手にできなくなっていた。

1933年2月28日の米ミシガン州における銀行の取り付け騒ぎ。米国国立公文書館所蔵・撮影者不詳 / Wikimedia Commons / Public domain。
4年前の1929年10月、ニューヨーク株式市場は急落した。それから何年もたった1933年になってなお、銀行の前には不安を抱えた預金者が集まっていた。
なぜ株式市場の危機が、ここまで長く人々の仕事と生活を苦しめたのだろうか。
暴落の前から、経済には不安定さがあった
1920年代のアメリカでは、自動車、家電、電気機器などの生産と消費が広がった。企業が利益を上げ、株式を買う人も増えた。借金をして株を買い、株価が上がれば利益を得る投資も行われていた。
しかし企業の収益や実際の需要に比べて株価が高すぎるのではないかという不安が高まると、人々は持ち株を売ろうとする。価格が下がるから売る、売る人が増えてさらに下がるという悪循環が生まれた。
1929年10月の大暴落は世界恐慌を象徴する出来事となった。だが連邦準備制度の歴史資料が説明するように、米国の景気拡大は同年8月にはすでに終わっていた。株価急落だけが経済を悪化させた唯一の原因ではない。
工業生産が減り、企業が投資を控え、雇用が失われる。仕事を失った家庭は商品を買わなくなり、その需要減少がさらに企業の売上を減らす。悪循環は実体経済に深く入り込んだ。
銀行の金庫に、預金の全額が置いてあるわけではない
預金者が銀行へお金を預けると、銀行はそのすべてを紙幣や硬貨のまま保管するわけではない。貸出や資産の運用などにも使う。通常なら、預金者全員が同時にお金を引き出すことは想定されていない。
しかし「あの銀行が危ない」といううわさが広がれば、預金者は自分だけでも先に現金を引き出そうとする。たとえ長期的には資産を持つ銀行でも、今すぐ現金が足りずに行き詰まることがある。これを取り付け騒ぎという。
取り付けは一つの銀行にとどまらない。どこかの銀行の破綻を見た人々は、別の銀行にも不安を抱く。預金が引き出されると、銀行は貸出を減らしたり、資産を急いで売ったりする。企業や家庭はお金を借りにくくなる。
1930年から1933年の米国では、銀行危機が繰り返し発生した。銀行そのものが倒れるだけでなく、支払いと信用の仕組みが弱まったため、不況を深刻にした。
値下がりが続くと、借金は重くなる
物価が下がると聞くと、買い物が安くなって良いことばかりのように思える。しかし商品価格や賃金が下がる一方、借金の金額は同じまま残る場合がある。
年収が減った人でも、借入金の元本が自動的に減るわけではない。物価が下がれば企業の売上は縮み、固定された債務の返済が苦しくなる。企業や家庭が支出を減らすと、さらに需要が落ち込む。
このようなデフレと債務の関係が、世界恐慌の長期化を説明する要因の一つとして研究されている。ただし恐慌には多くの要因があり、金融政策や国際通貨制度の役割をめぐっては複数の学説がある。
銀行の破綻を恐れる人は預金を引き出し、消費を控える。企業も投資を先送りする。個々の人にとって慎重な行動が、社会全体では景気の回復を難しくする場合がある。
各国を結び付けていた金本位制
世界恐慌はアメリカだけの事件ではない。多くの国が国際金融や貿易を通じて結び付いていたため、衝撃は世界へ波及した。
当時の金本位制の下では、各国の通貨の価値と金との関係が重要だった。国の外へ金が流出すると、金準備を維持するために金融引き締めを強めざるを得ない場合がある。しかし深刻な不況の中で金利を上げたり資金供給を絞ったりすれば、企業や家庭はさらに苦しくなる。
各国は通貨制度や金融政策の制約を受けながら対応し、貿易障壁を高める政策も現れた。関税だけが世界恐慌の原因だったわけではないが、国際経済の縮小を深める要因になった。
この時代の経験は、第二次世界大戦後に国際通貨制度を設計するときの重要な教訓になった。
1933年、アメリカ政府は銀行取引を停止した
1933年3月4日に大統領へ就任したフランクリン・ルーズベルトは、3月6日から全国の銀行取引を停止した。
人々が銀行で預金を引き出せなくなる。現在から見ても異例の政策だ。政府は銀行を審査して再開できる機関を選び、3月9日には緊急銀行法が成立した。3月13日から銀行が段階的に再開し、3月15日までに銀行資源の大部分が再び取引を行えるようになったと連邦準備制度の歴史資料は説明する。
新政権の政策は金融危機の沈静化に一定の役割を果たしたが、経済全体の回復には長い時間がかかった。1937年には再び景気後退が起きた。銀行が再開した日が、世界恐慌の終わった日ではない。
銀行が全国で一時閉鎖された1933年の出来事は、金融への信用がいかに重要かを具体的に示している。
政府は景気にどこまで関わるべきか
世界恐慌は市場の仕組みだけで不況がすぐに解消されるとは限らないことを明らかにした。公共事業、失業への支援、社会保障、銀行規制など、政府が経済の安定にどのように関与するかが大きな政治課題になった。
1930年代の経験は、財政政策や金融政策を考える経済学にも影響した。ジョン・メイナード・ケインズが1936年に出版した『雇用・利子および貨幣の一般理論』は、需要不足と雇用の問題を考えるうえで大きな役割を果たした。
ただしニューディール政策の各施策の効果や、中央銀行の政策が恐慌をどれほど深めたかについては、今も経済史研究で議論がある。単一の政策が一度に問題を解決した、という話ではない。
銀行の前に並んだ人々の写真は、世界恐慌が株式を保有する富裕層だけの事件ではなかったことを示す。企業、労働者、農家、家族の生活まで、金融と実体経済の危機が広がったのである。