百科事典 · 経済

戦後世界経済の歴史――金とドルの約束から、為替が動く時代へ

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更新日:2026-10-31

1944年7月、第二次世界大戦がまだ終わっていない時期に、米国の山間部のホテルへ44か国の代表が集まった。

ニューハンプシャー州ブレトンウッズ。そこで話し合われたのは、戦争の勝ち負けだけではない。戦争が終わったあと、国際経済をどのような規則で動かすかという問題だった。

1944年のブレトンウッズ会議

ブレトンウッズ会議の開会時に演説するヘンリー・モーゲンソー米財務長官。米国国立公文書館所蔵・米国政府制作 / Wikimedia Commons / Public domain。

この会議で決められた制度は、のちに国際通貨基金(IMF)や世界銀行を生み、戦後の固定為替相場制の基礎になった。その仕組みが変わった1971年は、今日の為替ニュースを理解するうえでも重要な年である。

なぜ戦争中に通貨の会議を開いたのか

第一次世界大戦とその後の世界恐慌の時期、各国は不況、失業、通貨危機に苦しんだ。貿易を守るために関税を上げ、外国の商品を締め出し、通貨の価値を切り下げようとした国もある。

しかしそれぞれの国が自国の利益だけを守ろうとすると、国際的な取引が縮小し、金融への不安が広がる場合がある。多くの人にとって他国から物を買うことも、海外へ輸出することも難しくなった。

そこで新しい国際的な制度が必要だと考えられた。ブレトンウッズ会議では、通貨の安定、国際的な資金繰りの支援、戦後復興などをめぐる交渉が行われた。

中心的な制度として構想されたのがIMFと、後の世界銀行グループの起点となる国際復興開発銀行である。IMFは国際通貨協力や国際収支の問題に対応すること、世界銀行は復興・開発資金を支えることが期待された。

当時の世界のすべての国が対等な立場で制度を設計したわけではない。植民地支配が続いていた地域も多く、参加国の交渉力にも大きな差があった。

ドルを金に、ほかの通貨をドルに結び付ける

新しい国際通貨秩序では、各国の通貨をドルに対して一定の相場に保つことが目指された。ドルは外国の中央銀行などに対して、決められた公定価格で金に交換できる仕組みだった。

金の公定価格は1トロイオンス当たり35ドル。一般の人が持つすべてのドル紙幣を、窓口へ持っていけば金に交換できる制度ではない。国際通貨当局の間の交換が中心となる。

為替レートが大きく動かなければ、貿易や投資の取引を計画しやすい。輸入代金の支払いや国際的な資金の移動に安定性を与える狙いがあった。

ただし固定相場には負担もある。通貨を決められたレートに保つには、各国が金融政策や外貨準備の運用を調整しなければならない。国内で不況が起きても、為替レートを自由に動かして対応することは難しくなる。

日本では1ドル360円の時代が続いた

日本は戦後の復興過程で1949年に1ドル360円の単一為替レートを設定した。これはドルと円の価値が市場で毎日自由に決まる制度とは違った。

1950年代から60年代にかけて日本は急速な経済成長を経験した。工場への投資、農業から製造業・サービス業への労働力移動、技術導入と改良、生産性向上などが重要な要因だった。

総務省統計局の『Statistical Handbook of Japan 2025』によれば、1960年代の日本の経済成長率は年10%を超える速さで推移した。 この成長期には政府の国民所得倍増計画が掲げられ、東海道新幹線の建設に世界銀行が融資した。洗濯機、テレビ、冷蔵庫などの普及や都市化が人々の生活を大きく変えた。

しかし成長の負担もあった。大都市への人口集中、交通渋滞、公害、長時間労働など、経済発展の影響はすべての人に同じ形で現れたわけではない。

1944年のブレトンウッズ会議に集まった参加者

ブレトンウッズ会議の開会式後に集まった人々。米国国立公文書館所蔵・米国政府制作 / Wikimedia Commons / Public domain。上の写真と同じ会議の別場面。

1971年、米国はドルと金を交換する約束を止めた

戦後の貿易が増えるほど、世界の各国は支払いに使えるドルを必要とした。米国から国外へ流れるドルは増えたが、ドルとの交換を約束していた米国の金準備は無限ではなかった。

外国の通貨当局が多くのドルを持ち、金への交換を求めるようになると、米国は公定価格での交換を維持するのが難しくなる。1971年8月、ニクソン大統領はドルと金の公的な交換を停止すると発表した。

ブレトンウッズ体制のドルと金の関係を示す模式図

ブレトンウッズ体制の基本的な通貨関係を単純化したオリジナル図。市場取引や各国の交換制限の詳細は省略。

この措置だけで一夜のうちにすべての国が完全な変動相場制へ移ったわけではない。各国は相場の調整と制度の立て直しを試みたが、1973年には主要工業国の多くが変動相場制へ移ることになった。

日本でも1971年に円の公定レートが1ドル308円となり、1973年には変動相場制を採用した。以後、円高・円安は金融市場での需給や景気、金利、国際情勢などによって変化するようになった。

1971年のドルと金の交換停止は、紙幣がどのような約束によって価値を持っていたかを考える重要な出来事である。

戦後経済の拡大は、同じ速さで進まなかった

戦後、GATTに始まる貿易交渉などを通じて、国境を越える商品取引は拡大していった。欧州や日本の経済が復興し、多くの国で工業化が進んだ。

しかし成長の速さは地域によって違った。旧植民地から独立した国々がインフラや産業を整備しようとしても、資本、技術、教育、国際的な取引条件などの壁が存在した。

また1970年代の石油危機は、エネルギーの価格が国際経済の安定を揺るがすことを示した。日本でも1974年に戦後初のマイナス成長を経験した。

やがて1980年代から90年代にかけて資本移動の自由化や貿易の拡大、コンピューターの普及が進み、国際的な生産・金融のつながりが強まった。さらに中国などの工業化が世界の製造業の構造を変えた。

為替制度が変わっても、世界経済の問題は残る

今日の為替市場では、通貨の価格が日々変わる。固定相場制の時代より柔軟に対応できる場合がある一方、為替レートが急に変動すれば輸入価格や借金の負担が変わる。

また金融危機や供給網の混乱、資源価格の上昇は、変動相場制であっても国境を越えて広がりうる。政府と中央銀行、国際機関の役割はなくならなかった。

1944年の会議に集まった人々は、将来のすべての問題を予測できたわけではない。それでも戦間期の経験を踏まえ、国際協力のルールを設計しようとした。

経済史の中で重要なのは、ある制度が永遠に成功したかどうかではない。何を解決しようとして作られ、どんな新しい問題に直面して変わったのかを知ることだ。

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REFERENCES

参考文献・出典

  1. Creation of the Bretton Woods System ↗Federal Reserve History
  2. Nixon Ends Convertibility of U.S. Dollars to Gold ↗Federal Reserve History
  3. History ↗World Bank
  4. IMF Timeline ↗International Monetary Fund
  5. Statistical Handbook of Japan 2025 ↗総務省統計局
  6. Trade, Jobs and Growth ↗IMF

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