1960年12月27日、日本政府は非常に大きな目標を閣議決定した。10年以内に日本の経済の規模を実質で2倍にするという計画である。
池田勇人内閣による国民所得倍増計画だ。
日本は戦争の大きな被害から立ち直りつつあった。企業の設備投資が増え、工業製品が多く作られるようになり、都市には仕事を求める人々が集まっていた。そんな時期に、政府は人々の生活を大きく改善する目標を掲げた。
しかし計画名だけを見ると、一人ひとりの給料が10年後に必ず2倍になる政策だったように思える。実際には、目標の意味はもう少し複雑だ。
何を2倍にしようとしたのか
国立公文書館に残る閣議決定の資料では、目標は実質国民総生産(GNP)の倍増だった。物価が上がったから金額が2倍に見えるというだけでなく、経済で作られる財やサービスの規模を実際に大きくするという意味である。
1960年当時、計画の想定する平均的な実質成長率は年率約7.8%。複利計算でおよそ10年間続けば、経済規模は約2倍になる。
ただしGNPが2倍になっても、すべての人の賃金が同じ割合で増えるとは限らない。人口の変化、企業と労働者の間での利益の配分、地域差、物価などが関わる。
政府が目指したのは経済全体の成長を通じて雇用を増やし、生活水準を改善することだった。
1960年代の日本で実際に起こったこと
日本の工業生産は1960年代に大きく伸びた。鉄鋼、造船、自動車、電機などの企業が設備投資を進め、家庭には洗濯機や冷蔵庫、テレビなどが広まった。
海外の技術を取り入れ、それを改善し、大量生産を行う。そこで必要になったのが工場だけでなく、発電所、道路、港湾、鉄道である。
東海道新幹線の世界銀行融資が決まったのも1961年で、東京と大阪を結ぶ輸送能力を増やすことが経済の成長を支えると考えられていた。
内閣府の歴史的な統計では、1961年の実質GDP成長率は11.9%、1964年は11.2%、1968年は11.9%と、非常に高い数字になっている。現代の日本経済と比べても、当時の拡大の速さは際立っていた。
政府計画の目標と内閣府の歴史的GDP統計を整理したオリジナル図。GNPの目標とGDPの実績は厳密に同じ統計ではないため、各成長率をそのまま達成率として比較できるわけではない。
成長が速くても、暮らしの問題が消えるわけではない
国民所得倍増計画には、道路や港湾だけでなく、住宅、下水道、社会保障、教育、科学技術の整備も含まれていた。政府は経済の生産量を増やすと同時に、地域差や生活水準の格差も課題と認識していた。
しかし人口と工場が大都市や工業地域に集中すると、住宅不足や交通渋滞、公害の問題が深まった。川や海に排水される汚染物質、工場からの煙、騒音が住民の健康を損なう場合もあった。
高度成長は多くの家庭の生活を変えたが、すべての人に同じ速度で利益が届いたわけではない。経済政策の評価には、生産量だけでなく、環境や労働条件、所得の分配も欠かせない。
「計画」が経済を一人で成長させたのか
国民所得倍増計画の存在と、日本が大きく成長したことはどちらも事実である。しかし計画を作ったから、その結果として成長のすべてが起きたと考えるのは単純すぎる。
計画が決まる前から、日本では高い経済成長が進んでいた。企業の設備投資、人口移動、技術の導入と改善、世界市場の拡大なども重要だった。
国立公文書館の資料を読むと、政府は社会資本、教育、技術、輸出の拡大などに関する政策を、成長の目標と結び付けて考えていたことが分かる。
一つの政策が経済を魔法のように大きくしたのではない。すでに進みつつあった変化に、政府が目標を与えて政策を組み合わせようとした歴史なのである。