1933年3月6日、アメリカの銀行は全国で取引を止めた。預金を引き出すことも、ほかの口座へ振り込むことも、通常のようにはできなかった。
それを命じたのは、わずか2日前に大統領へ就任したフランクリン・ルーズベルトだった。銀行が破綻するのを防ごうとして、銀行の窓口を閉めるという手段を選んだのである。

1933年3月12日、銀行危機に関する炉辺談話を放送するルーズベルト。米国国立公文書館所蔵・米国政府制作 / Wikimedia Commons / Public domain。
銀行が困っているとき、人々が先を争って預金を引き出す
世界恐慌が深まる中、多くの銀行が経営に行き詰まっていた。銀行に預けたお金が戻らないかもしれないという不安が広がれば、預金者は早く現金を持ち帰ろうとする。
しかし銀行は預金をすべて紙幣として保管しているわけではない。企業への貸出やその他の資産になっている部分もある。多数の人が同時に現金を引き出せば、預金額の合計より現金の用意が少ないために支払いが追いつかなくなる場合がある。
一つの銀行の取り付けが報じられると、別の銀行の預金者まで不安になる。銀行が倒れれば、そこにお金を預けていた人だけでなく、融資を受けていた企業も苦しくなる。
これが金融危機が経済全体を悪化させる経路の一つだった。
就任二日後の決断
ルーズベルトは1933年3月4日に就任し、3月6日から全国の銀行取引を停止する命令を出した。連邦準備制度の歴史資料によれば、銀行取引が全国的に停止されたのは約一週間に及んだ。
政府はただ窓口を閉めたのではない。銀行の資産と経営状況を調べ、再開を認める機関を選ぶための準備も進めた。
3月9日には緊急銀行法が成立した。再開できる銀行に許可を出し、必要な金融支援を行う制度が整えられた。3月13日から一部の銀行が開き、3月15日までに銀行資源の約90%を占める銀行が業務を再開したと連邦準備制度の歴史資料は伝える。
すべての銀行が助かったわけではない。再開できず、閉鎖されたままの銀行も多かった。
大統領はラジオで銀行の仕組みを説明した
ルーズベルトは3月12日、国民に向けてラジオで語りかけた。一般に**炉辺談話(fireside chat)**と呼ばれる演説の最初の一つで、銀行の仕組みと政府の対応について説明した。
政治指導者が法律や命令を出すだけで、社会の信頼が戻るわけではない。人々がなぜ銀行へ預金を戻してもよいのか、何を根拠に判断すればよいのかを伝える必要もあった。
銀行が段階的に再開すると、預金が引き出される額を上回って戻ってくるようになった。しかし経済全体の不況は続き、失業がすぐに解消したわけではなかった。
この事件は銀行への信用が社会にとって重要であることを示す。銀行は現金を保管する金庫であるだけでなく、企業と家庭の資金をつなぐ仕組みだからだ。