ドイツのマインツに、あるローマ兵の墓碑が残っている。名前はルキウス・ナエウィウス。現在のイタリア北部にあたるトリノの出身で、第14軍団ゲミナに属し、45歳で亡くなった。軍にいた期間は23年。最後に彼の名前を石へ刻んだのは兄弟だった。
碑文には勤務年数がある。それでも、ライン川のほとりでどんな朝を迎え、どの戦争を経験し、何を食べたのかは分からない。二千年近く残ったのは、名と故郷、軍団、年齢だけである。
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ルキウス・ナエウィウスの墓碑。45歳、軍務23年で亡くなったと記されている。マインツ州立博物館。 撮影:Carole Raddato / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。縮小表示。
皇帝が軍隊を率いて遠征した時代、兵士の仕事は戦いだけでは終わらなかった。道路を造り、砦を建て、国境で荷物を検査し、商人と取引し、故郷に手紙を書いた。軍隊はローマの領土を広げ、その後に続く支配を現地で実行する大きな組織でもあった。
ここでは、おもに共和政末期から2世紀までを舞台に、ローマ軍の中で人々がどのように生きていたかをたどる。特に国境の暮らしを伝えるヴィンドランダの書簡には、軍団兵ではなく補助軍兵士の資料が多く残る。両者の身分や役割を区別しながら、兵士の人生を追っていく。
軍団に入る――兵士になることの意味
ルキウス・ナエウィウスはトリノからライン川の地方へやってきた。兵士が故郷を離れて勤務することは、ローマの征服がイタリアの外へ広がるほど一般的になっていった。
共和国時代の軍隊は、初めから帝政期の長期勤務の常備軍だったわけではない。古い制度では一定の財産を持つ市民の軍役が重視され、戦争に応じて軍を編成した。しかし、イタリア半島を越えて遠い土地で戦争を続けるようになると、農地へ戻るはずの兵士が長いあいだ帰れなくなった。兵士を集める方法も、その家族の生活も、昔のままでは済まなくなった。
紀元前2世紀末には、将軍ガイウス・マリウスが兵士の徴募に関わり、その名が軍制の転換と結びつけられてきた。ただ、軍団の隊形や兵士の募集方法が一人の将軍の命令で一度に変わったと示す史料は乏しい。イタリアの同盟都市の軍と協働する長い経験が、コホルス(大隊)を中心とする編成の発達に影響したと研究されている。Michael J. Taylor(2019)は、その過程をイタリア同盟軍との関係から分析している。
内戦を経てアウグストゥスが皇帝の地位を確立すると、長期勤務する兵士を中心とした常備軍が整えられた。ローマの軍団には原則として市民権を持つ男性が入り、地方の非市民を多く含む部隊は**補助軍(アウクシリア)**として編成された。補助軍には騎兵、弓兵、歩兵などがあり、軍団と役割を分担した。すべての兵士が同じ武器と盾を持って歩いたわけではない。
入隊の理由には給与や生活の安定、退役後の権利があった。給料は時代と階級によって違い、支給額のすべてを自由に使えたとは限らない。装備や食事に関する控除、家族への送金、将来のための貯蓄もあり得た。補助軍兵士の中には、長期勤務後の市民権取得を見込んで兵士になった人もいた。
一方、軍務には負傷、病気、戦死の危険がつきまとった。募集はすべての土地や時代で自発的な志願だけによっていたわけではなく、社会的な圧力や強制もあり得た。新兵が命令に慣れ、武器を持ち、隊列を組めるようになるには、毎日の厳しい訓練が必要だった。
軍団兵の勤務年限は帝政期に制度化されたが、実際の年数は時代と事情によって変わった。20年の軍務に追加の勤務が組み合わされる例もあり、ナエウィウスの23年間という記録を当時の退役制度と機械的に照らすことはできない。長い勤務を終えるまで生き延びられるかどうかも、兵士には切実な問題だった。
新しい兵士が戦いに出る前に覚えたのは、どれほど長く歩き、疲れていても仲間から離れず、決められた命令に従えるかということだった。
行軍する――剣よりも先に必要だったもの
ローマ兵の姿を思い浮かべると、盾を構えた兵士が整然と進む光景が浮かぶ。しかし、戦場にたどり着く前に兵士が相手にしたのは、足元の道や荷物の重さ、野営地の建設だった。
兵士は槍や剣、盾だけでなく、食料、衣服、調理道具、作業用の工具を運んだ。行軍では隊列を乱さず歩き、目的地に着けば宿営地を整える必要があった。長い移動を支えたローマの道路網も、帝国全域を一様な舗装路で覆っていたわけではない。ぬかるみや寒さ、川の増水は行軍を妨げ、兵糧を運ぶ荷駄や補給部隊の遅れは戦闘の計画にも影響した。
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1世紀の軍用履物カリガ。マインツ州立博物館。 撮影:Carole Raddato / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。縮小表示。
写真のカリガは、1世紀の兵士の履物として残された実物だ。革を編んだ部分と底を補強する鋲が確認できる。足を傷めた兵士は、敵に遭遇する前から部隊の移動速度を落としてしまう。履物の修理と交換は、戦う道具の手入れと同じくらい重要だった。
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クサンテンで出土した1世紀のローマ軍団兵の兜。 撮影:Carole Raddato / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。縮小表示。
兜には頭部と頬、後頭部を守る仕組みがあり、盾や鎧と組み合わせて使われた。金属板を重ねたロリカ・セグメンタタはローマ軍の代表的な防具として知られるが、鎖帷子状のロリカ・ハマタなども長く用いられた。兵士の防具は時代や場所、部隊の役割で変わっていった。
接近戦に使う短剣グラディウスは、狭い隊列で扱いやすい形をしている。投槍ピルムを使って敵に損害を与え、その後に盾を構えて前進する戦術は帝政期の軍団の特色として知られる。しかし実際の戦場では弓兵、騎兵、投石兵、工兵なども働き、戦況は地形や敵の装備、指揮官の判断に左右された。

ストラスブール考古学博物館の1世紀の短剣グラディウスと鞘。 撮影:Xenophon / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小表示。
多くの兵士を動かすには、命令を全員へ行き渡らせる指揮系統が必要だった。百人隊を意味するケントゥリアは軍の運営を支える基本単位で、ケントゥリオ(百人隊長)が兵士を指導した。ただし名前の由来とは異なり、定員がいつでも100人だったわけではない。帝政期の代表的な形では80人程度の百人隊が知られ、複数の百人隊からコホルスが組織された。軍団はこうした部隊を束ねる数千人規模の組織だった。実際の人数は時代や欠員、遠征によって変わった。
兵士は自分の部隊名と軍旗を知っていた。軍団の中でも鷲旗アクィラは特別な意味を持ち、戦いで失うことは名誉に関わる重大な事件だった。
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第14軍団の鷲旗手グナエウス・ムシウスの墓碑。 撮影:Carole Raddato / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。縮小表示。
マインツには第14軍団の鷲旗を担ったグナエウス・ムシウスの墓碑がある。32歳で亡くなり、軍務に就いた期間は15年。石には軍装姿の彼が彫られ、旗を持つ姿を家族が後世に残した。英雄物語では触れられにくい、任務の途中で終わったひとりの人生である。
軍団が動くたびに、荷車、家畜、工事の職人、物資を扱う人々も移動した。兵士は剣を振るえるだけでは足りず、長く移動し、食べ、雨を避け、必要な場所に防御施設を作らなければならなかった。戦場での連携は、その前に積み重ねた地味な仕事に支えられていた。
国境に暮らす――軍の砦は一つの町だった
帝国が領土を広げるにつれて、軍隊には征服地を守り続ける仕事が増えた。兵士の多くは遠征の戦いに出ている時間より、駐屯地での勤務や建設、訓練、警備に長い時間を過ごした。
国境には大きな軍団要塞と、補助軍が使う比較的小さな砦が置かれた。街道に沿って物資が運ばれ、川には船が通り、見張りの拠点は周辺の交通を監視した。軍事基地は兵士が寝るだけの場所ではなく、命令と補給の中心でもあった。

北イングランドのハウスステッズ砦の現在の空撮。 撮影:Lieven Smits / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小表示。
現在のイングランド北部に残るハウスステッズ砦の遺構を上から見ると、整然と区切られた街路や建物の基礎が見える。司令部、兵舎、倉庫があり、砦の内側はひとつの町のように使われた。各部隊の将校は人員を管理し、食料や武具を保管し、勤務を割り当てた。
近くのハドリアヌスの長城は、122年ごろに建設が始まった。軍団の兵士は建設に参加したが、完成した長城の砦を日常的に守ったのは、主として補助軍の部隊だった。軍団と補助軍の仕事がひとつの国境施設で重なり合っていた。

ハドリアヌスの長城と砦の現在の空撮。 撮影:Lieven Smits / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小表示。
長城は石を積んで人の通行をすべて遮断する施設というより、守備隊、門、見張り、道路の組み合わせによって国境を統治する仕組みだった。長城の向こうにも共同体があり、交易や移動、争いが続いた。ローマ軍は国境を守ると同時に、その境界を通過する人と物に関わり続けた。
国境の兵士の声を今に伝えるのは、砦の南にあるヴィンドランダの遺跡である。湿った土壌の中から、革靴、布、木材などとともに、墨で文字を書いた薄い木簡が多数見つかった。1973年に注目されたこの発見は、ローマ軍の日常を研究するうえで大きな意味を持った。

ヴィンドランダ出土の木製書簡板。大英博物館所蔵。 撮影:Mike Peel / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小表示。
木簡には戦勝を誇る宣伝ではなく、誰をどこへ派遣したか、誰が病気なのか、何を買う必要があるかといった事務仕事が記されていた。
西暦92〜97年ごろの木簡154号には、第1トゥングリ人歩兵大隊の兵員総数が752人と書かれている。このうち砦にいたのは296人で、その中に勤務できない者31人、勤務可能な者265人が記されていた。残る兵士はさまざまな任務で別の場所へ出ていた。この記録には読み取りの不確かな数字も一部あるが、大勢の兵士が砦の外で働いていたことは明らかだ。
別の木簡156号は、建物の工事に従事する者、石灰を焼く者、柵の材料を運ぶ者などの勤務を伝えている。基地を維持するには、大工仕事や資材の加工も必要だった。
将校が書いた木簡628号には、ビールが足りないという連絡が含まれている。ローマ兵が飲んでいたのはワインだけではなく、赴任地で手に入る飲み物や食べ物も暮らしに加わっていた。
食事を作る人、衣服を修理する人、病人を看る人、馬を世話する人、夜間の見張りをする人。軍の仕事は細かく分かれ、何千人もの兵士を生かし続けるために毎日動いていた。国境の守備は一度戦いに勝てば終わる任務ではなかった。
手紙の届く砦――兵士の家族と占領地の人々
ヴィンドランダには軍務報告だけでなく、友人の訪問を楽しみにする手紙も残されている。兵士の勤務先は、家族が生活し、人間関係を築く場所でもあった。

クラウディア・セウェラからスルピキア・レピディナへ送られた誕生日の招待状。 撮影:Michel wal / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。縮小表示。
西暦97〜105年ごろ、クラウディア・セウェラという女性が、友人スルピキア・レピディナを自分の誕生日に招いた。日付は9月11日。セウェラは軍関係者の妻で、レピディナは補助軍の指揮官フラウィウス・ケリアリスの妻だった。招待状には、来てくれたらうれしいという親密な気持ちが書かれている。
手紙の大部分は書記の手によると考えられるが、末尾にはセウェラ本人の筆跡とみられる挨拶が加えられた。現存する女性のラテン語筆跡として最古級の資料であり、木簡291号の原文と翻訳を通してその内容を確かめられる。
この招待状からは、戦場を離れた人々の生活が見えてくる。誕生日が近づけば食事の準備をし、友人に手紙を送り、訪問を待つ。辺境の砦にもそうした時間があった。手紙を届ける人がいて、食事を作る人がいて、同じ空間に子どもたちや家事を担う人々もいた。
ただし、一般の兵士にとって法律上の婚姻は容易ではなかった。帝政初期には軍務に就く兵士の正式な婚姻が制限され、セプティミウス・セウェルス帝の時代には取り扱いが変わったと伝えられている。その間も、軍の周辺には兵士の伴侶や子ども、商人、職人、奴隷にされた人々が暮らしていた。法律の定めと現実の人間関係は必ずしも一致していなかった。
軍の外側にはウィクスと呼ばれる民間の集落が発達することがあった。兵士の給与は市場へ流れ、衣服や道具を売る商人、修理をする職人、食事を出す店などが軍の需要を支えた。遠くから来た兵士が駐屯地の近くに家族を持ち、退役後にも住み続ける場合もあった。
しかし軍の到着は、地元の住民にとって必ずしも歓迎すべき出来事ではなかった。軍は道路を建て、交易を活発にすることがある一方、占領地の秩序を強制する力でもあった。兵士が税や物資を取り立て、反抗を抑え、時には人々へ暴力を振るうこともあった。軍の存在によって収入を得た人々と、支配を受けて苦しんだ人々は同じ土地に暮らしていた。
大英博物館のローマ軍展覧会は、兵士と家族の日常だけでなく、ローマの占領政策や反抗する住民との衝突も取り上げている。軍団にとっての平和と、征服された人々にとっての平和は同じ経験ではなかった。
それでも軍隊が長く滞在すれば、言語や食べ物、服装、信仰は交流の中で少しずつ変わる。兵士は帝国を支配する側の一員でありながら、駐屯地の人々とともに暮らす一人の住民でもあった。
軍務の終わり――青銅板と墓碑に残った人生
長い勤務を終えた兵士には、退役手当や土地の分配などが与えられることがあった。退役した人が故郷へ戻ることもあれば、長年住んだ国境の土地や、退役兵が集まる都市に残ることもあった。
その将来を大きく左右したのが、ローマ市民権だった。軍団は原則として市民権を持つ兵士で構成されたが、補助軍には市民ではない地方出身者が多かった。長年の軍務を終えた補助軍兵士には、皇帝から市民権や婚姻に関する権利が与えられる制度が発達した。

149年ごろの軍事ディプロマ。メトロポリタン美術館所蔵。 撮影:Metropolitan Museum of Art / Wikimedia Commons / CC0。縮小表示。
青銅板に刻まれた軍事ディプロマは、そうした権利の付与を記録した公的な文書だった。二枚の板に皇帝の名、部隊、兵士の名などが刻まれた例が残る。大英博物館には103年にトラヤヌス帝から騎兵将校レブルスへ与えられた軍事ディプロマの実物があり、市民権と法律上の婚姻に関する権利を確認できる。
補助軍の軍務は25年前後が一つの目安となった。ただしディプロマに記された権利の内容は時代によって変わり、退役すればすべての人に同じ文書が与えられたわけでもない。軍団兵はもともと市民権を持つのが原則だったため、補助軍や艦隊に関わるディプロマと混同できない。制度の変化はOxford Classical Dictionaryの解説で詳しく扱われている。
軍団の兵士は軍事的な役割を終えても、帝国の社会に痕跡を残した。退役兵が土地を耕し、子どもを育て、地元の人々と結婚することで、駐屯地の周辺には新しい共同体が発達した。軍が建てた道路や橋、砦、浴場などは、軍の配置が変わっても利用されることがあった。
一方、必ずしもすべての兵士が退役できたわけではない。戦場で命を落とす人がいれば、病気や事故で亡くなる人もいた。出世して指揮官になる者もいたが、名を残す機会のないまま一生を終えた人々も大勢いた。
冒頭のナエウィウスは、23年間軍務を続けて45歳で亡くなった。彼が戦いで死んだのか、病気だったのか、退役まであと何年あったのかは分からない。石に刻まれた故郷と軍団、勤務年数は、本人のすべてを語ってはいない。しかし兄弟が墓碑を建て、その名前が今日まで読めるようになった。
軍団は皇帝の命令で国境へ進み、道路を造り、地域社会に新しい秩序を作った。だがその大きな組織の中には、何年も家から離れ、靴を直し、食料を探し、手紙を読み、家族のことを考えた人々がいた。ローマ軍の強さは、その生活を維持する訓練と補給、制度と人間の営みがあって初めて成り立った。
古い墓碑の文字を見ていると、帝国の地図には記されない時間が感じられる。見知らぬ町に赴任し、仲間とともに働き、長い勤務を重ねた兵士の時間だ。二千年のあいだに軍団の旗は失われても、ナエウィウスの名は石に残った。
帝国の政治と軍事政策の変化はローマ帝国の歴史と五賢帝の84年間で詳しくたどっている。軍の外で暮らす人々の都市生活は古代ローマ人の暮らしで、兵士たちの信仰と国家の祭祀の関係はローマ宗教の歴史で紹介している。