西暦79年のヴェスヴィオ火山の噴火は、ポンペイの家々を火山灰の下に閉じ込めた。部屋に残されたのは食器や家具ばかりではなかった。家の隅には小さな祭壇があり、壁には神々に供物を捧げる人物が描かれていた。
同じ時代、首都では国家のために司祭が祈り、港町ではエジプトの女神が崇拝され、兵士たちが集まる部屋にはミトラスの浮彫が置かれた。これらは一つのローマ帝国に共存していた信仰だった。
やがて、その帝国でキリスト教が広がっていく。かつて地方総督が信者の処罰について相談していた皇帝は、数世紀後には教会を支援する立場となった。家の祭壇から大聖堂へと祈りの場が変わるまでに、人々の暮らしと政治はどのように変わったのだろうか。
家の祭壇から見えるローマ人の信仰
ポンペイの住居には、人々が自宅で神々を祀っていた痕跡が残されている。
西暦79年のヴェスヴィオ火山の噴火によって埋もれたポンペイの住居からは、家の宗教に関する壁画や小さな祭壇が残された。住民たちは、特別な祭りの日だけでなく、日々の生活の中で神々を意識していた。
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ポンペイ出土の家の祭壇画(ナポリ国立考古学博物館)。上段に供物を捧げる人物と守護神、下段に蛇が描かれる。 撮影・資料:ArchaiOptix / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。画像は閲覧向けに縮小表示。現在の遺構写真は古代の復元図ではない。
写真の壁画は、ポンペイの住宅の祭壇に関係するものだ。上段には供物を捧げる人物、儀式に関わる人々、家の守護神ラレスの姿などが描かれ、下段には蛇がいる。
家の祭壇画に描かれた蛇は、土地や家の守護と関わる存在だった。家の祭壇画の中で、蛇は恐怖の怪物というより、暮らしを守る力と結びついていた。
家を守る神々には、ラレスやペナテスがいた。ラレスは家の人々の安全や繁栄に関わる守護神、ペナテスは家の蓄えや生活と結びついた神々として扱われた。家の一角には、ララリウムと呼ばれる祭壇のような場所が設けられることがあった。
ラレスの小像は、短い服を着て踊るような姿で表され、杯や供物を捧げる皿を手に持つ。ニューヨークのメトロポリタン美術館には、実際に1〜2世紀のラレスの青銅像が残る。
家の祭祀には家族の安全を願う気持ちが込められ、家の主人、妻、子ども、使用人、奴隷にされた人々が暮らす空間で、家族の秩序や共同生活とも結びついた。
小さな祭壇には、そこで暮らした人々の日々の祈りが刻まれている。
家庭の祭壇から目を移すと、町の神殿に祀られた神々が見えてくる。
ローマの神々の中で、ユピテルは天空や雷、国家の最高権威に結びついた神だった。ユノは結婚や女性に関わり、ミネルウァは技術や知恵に結びついた。マルスには軍事に関する重要な役割があり、ウェヌスは愛と結びついた。
ローマ市のカピトリーノの丘に祀られたユピテル、ユノ、ミネルウァは、国家の宗教的な中心を象徴する神々でもあった。

ユピテル(ジュピター)を表したグレコ・ローマ風の彫刻。現在、インドのアルバート・ホール博物館に展示されている。 撮影・資料:Neek-Theri / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。画像は閲覧向けに縮小表示。現在の遺構写真は古代の復元図ではない。
神々の役割は時代や土地によって変わり、軍神マルスにも農耕や土地の守護と結びついた古い伝統があった。同じ神でも、農村と都市とでは異なる祭りや祈りが捧げられた。
ギリシャ世界から取り入れた物語も多い。ユピテルはゼウスと重ねられ、ウェヌスはアフロディテと対応づけられた。ローマの古い祭祀は、ギリシャから伝わった神話と結びつきながらも、それぞれ独自の歴史を持っていた。古代イタリアで積み重ねられた祭祀、都市の伝統、ギリシャ由来の物語が、複雑に重なっている。
そしてローマには、巨大な神像がなくても意味を持つ神がいた。人が新しい家を建て、田畑を耕し、道を渡るとき、そこにある土地や営みと結びついた神聖な力も意識された。
帝国が広がると、こうした神々はさらに増えていく。ローマの人々は、異民族の神が自分たちの神と同じ存在の別名なのか、あるいは新しく受け入れるべき神なのかを考えた。
帝国では新しい土地の神々を祀ることも珍しくなかったが、都市や国家の秩序に衝突する祭祀は警戒された。
その境目は、後にキリスト教との関係で問題になる。
祈りには決まった手順があり、家庭の作法は公的な儀礼とも結びついていた。
ローマ人は、祈りの言葉や供物を捧げる手順を大切にした。儀礼で定められた作法を守ることは、神々との良好な関係を保つための重要な行動だった。
祈りの言葉を唱え、葡萄酒を注ぎ、香を焚き、祭壇に供物を置く。神によって祭式の作法は異なり、祭祀を司る人にはそれを守る役割があった。動物を犠牲として捧げることも重要な儀礼だった。
ローマ人が守ろうとしたものの一つが、ラテン語で**「パクス・デオルム」――神々との平和、神々からの好意を得られる関係**と呼ばれる考え方である。
パクス・デオルムとは、神々との良好な関係を意味する。神々の加護があってこそ、国家の安全と繁栄が守られると考えられた。戦争の敗北、異常な自然現象、災害が起これば、神々の意向を正しく理解していなかったのではないかと考えることもあった。
だから国家が危機に陥ると、司祭だけでなく元老院や有力な政治家も宗教上の対応を考えた。神々の怒りをなだめる儀礼は、政治的な判断の一部だった。
古代の政治家も神々からの好意や災厄を真剣に考えていたことは、古代ローマの祭祀を再検討した研究でも論じられている。
神々の意向を知る仕事には、占兆を扱う祭司たちも関わった。アウグルと呼ばれる祭司は、鳥の動きなどから神意を読み取るための規則を持っていた。
公的な行動を始める前に、宗教上の正当性を確かめる儀礼だった。ある政治行為が神々の承認を得たと主張できるかどうかは、権力や政治的な争いにも影響した。
また、エトルリア系の技術に由来する専門家が犠牲獣の内臓や雷などの徴候を解釈することもあった。
人が神々へ語りかけ、神々からの返答を探す。これがローマの公的な儀礼の基本にあった。
都市と国家を守った神々
ローマの中心、フォルムにはウェスタの神殿があった。ウェスタは炉や家庭の火と結びついた女神で、その聖域では国家の火が守られていた。
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ローマのフォルムに残るウェスタ神殿の遺構。国家の聖火を守った祭祀の場。 撮影・資料:Wknight94(後に一部トリミング) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。画像は閲覧向けに縮小表示。現在の遺構写真は古代の復元図ではない。
この火を守ったのがウェスタの巫女たちである。巫女たちは特別な宗教的地位を持ち、厳しい規律のもとで長く仕えた。一般のローマ女性にはない儀礼的な役割や特権を持つ一方で、守るべき規則を破ったと見なされた場合には厳罰の対象となった。
国家の中心に、家の炉を象徴する火がある。これは、ローマ人が国家を単に軍隊や法律でまとまった組織として見ていなかったことを示す。
神々との関係を守ることは、ローマという国家を維持するための公的な務めでもあった。
ローマの人々の暮らしには、公的な祭祀と家庭の信仰がともに根づいていた。家を守るラレスがいて、町の守護神がいて、国家を守る神々がいる。小さな祭壇と巨大な神殿は、別の規模で同じ世界につながっていた。
首都には家の炉よりもはるかに大きな神々のための建物が築かれた。
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現存するパンテオンの内部。現建物は主に2世紀に再建された。 撮影・資料:Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。画像は閲覧向けに縮小表示。現在の遺構写真は古代の復元図ではない。
ローマにあるパンテオンへ入ると、まず天井の大きさに目を奪われる。直径およそ43メートルの円形の空間が広がり、その上にコンクリート製の巨大なドームがかかる。頂部には直径約9メートルの開口部があり、そこから空の光が落ちてくる。
この建物は、もともと紀元前1世紀、アウグストゥスの側近アグリッパの事業として建てられた。その後に焼失などを経て、今日残る主要部分はトラヤヌス帝末期からハドリアヌス帝のころに再建されたと考えられている。
パンテオンという名前はギリシャ語ですべての神々を連想させる。ただし、現在の建物が当初どの神々のために建てられ、どのような儀礼に使われたのかは、今も研究が続いている。
さらに不思議なのは、この建物が後にキリスト教の聖堂となり、今日まで使われ続けたことだ。古代の神々の時代に生まれた円形の空間で、今はキリスト教のミサが行われる。
古代の神殿は7世紀初めにキリスト教聖堂として奉献され、巨大なドームと円形の空間を今日まで残した。
では、ここに祀られたかもしれない神々と、ローマ人の日常はどのようにつながっていたのだろう。
帝政の成立とともに、皇帝の権威も国家の祭祀に深く関わるようになった。
ローマ帝国になると、宗教は新しい政治的な意味を強めた。
共和政末期、カエサルは死後に神として祀られ、その後継者アウグストゥスは神格化されたカエサルの息子という立場を強調した。各地の都市には、皇帝や皇帝家に敬意を示す祭祀が広がっていった。
神格化された死去後の皇帝、現存する皇帝の守護的な力や権威、女神ローマと結びつけた祭祀など、形式は土地と時代によって異なっていた。ギリシャ語圏の都市とローマ市内とでも、儀礼のあり方が違った。

最高神祇官としてのアウグストゥスを表す像。犠牲祭に臨むように頭を布で覆っている。 撮影・資料:作者不詳の古い記録写真(原像は古代ローマ) / Wikimedia Commons / Public domain。画像は閲覧向けに縮小表示。現在の遺構写真は古代の復元図ではない。
このアウグストゥス像では、頭にトガの布がかかっている。ローマの犠牲祭に臨む祭司が取る姿を示しており、皇帝が単に軍隊の最高司令官でなく、国家の宗教儀礼にも関わる存在だったことが分かる。
アウグストゥスは後に最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)にも就いた。もともと共和政の宗教的な職務だったものが、皇帝の権力と結びついていく。
では、各地の都市が皇帝のために祭壇を建て、祭りを開いたのはなぜだろう。
一つには、都市の側に利益があった。皇帝との結びつきを示すことは、地方の有力者が名声を得たり、地域共同体が帝国の一員だと示したりする方法になった。皇帝崇拝は、上から一方的に強制された宗教というより、中央の権威と地方の政治が交わる場所でもあった。
だが、この行動に抵抗する人々にとっては事情が違う。皇帝像に香を焚くことが公的な忠誠のしるしになるなら、それを宗教的な理由で拒む人はどう扱われるのだろうか。
皇帝像への供物を拒むキリスト教徒の存在は、やがて帝国の行政官を悩ませることになる。
地中海を旅した神々
ローマは征服した土地に、ローマ市で祀られる神々を持ち込んだ。それと同時に、土地の神々も受け入れたり、ローマの神と同じ存在として解釈したりした。
現在のブリテン島でも、ローマ軍の基地や都市の遺跡から、ローマの神々と地域の神々を結びつけた祭壇が見つかっている。
たとえばローマの軍神マルスに、北方の土地の神の名を重ねた**「マルス・ティンクスス」**の祭壇は、異なる宗教文化が交わる様子を教えてくれる。イングリッシュ・ヘリテージの解説は、軍人の移動とともに神々も各地で祀られたことを紹介している。
都市や国家の秩序を脅かすとみなされた祭祀には、ローマ当局の警戒が向けられた。
儀礼が国家や地域の秩序と衝突すれば、宗教団体は制限されることもあった。共和国時代のバッカス信仰をめぐる取り締まりなど、ローマが宗教に警戒を向けた例は古い時代からある。
それでも、新しい神のために場所をつくる発想そのものは珍しくなかった。地域の神、都市の神、国家の神を必ずしも二者択一にしなくてよかったからだ。
この違いが、唯一神を信じる宗教と向き合ったときに大きな意味を持つ。
地中海を行き交う商人や兵士は、故郷の外でも神々を祀った。
ポンペイには、エジプトの女神イシスを祀る神殿があった。

ポンペイのイシス神殿遺構。エジプト由来の神をイタリアの都市でも祀っていたことが分かる。 撮影・資料:Juliana Bastos Marques(Wikimedia Commons投稿者 Domusaurea) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。画像は閲覧向けに縮小表示。現在の遺構写真は古代の復元図ではない。
地中海の交易で結ばれたローマ世界では、船で商品が運ばれるだけでなく、信仰も移動した。
イシスはもともと古代エジプトの神話に根を持ち、オシリスやホルスとの関係で知られる女神である。ヘレニズム時代にはエジプトの外でも祀られ、ローマ時代に広く知られるようになった。
イシスの祭祀では、特別な衣服や楽器が用いられ、入信儀礼や神殿との継続的な関係が重んじられた。ガラガラと音の鳴るシストルムは、イシス信仰を象徴する道具の一つだ。メトロポリタン美術館にはローマ時代の青銅製シストルムが保存されている。
ローマ人にとってイシスは、単に珍しい外国の神ではなかった。生命の危機、航海、安全、豊穣といった身近な願いを託せる神でもあり、祭りにはさまざまな身分の人が参加した。
しかし、イシス信仰は常に歓迎されたわけではない。首都ローマでは、時期によって神殿や儀礼への警戒もあった。その一方で帝政期には皇帝との関係を深め、堂々とした公共の祭祀として地位を得ていく。
かつて警戒された外来の神が、やがて都市の祭りと建築の一部になった。征服地の文化も、帝国の中心の信仰を変えていった。
ローマ帝国の宗教の中でも、ミトラス教は独特な資料を残している。
各地に小さな集会施設が建てられ、その内部には特定の図像が繰り返し描かれた。洞窟を思わせる空間に、向かい合う長いベンチ。奥には神が牛を屠る場面の浮彫や絵画が置かれた。
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ミトラスが牛を屠る場面を描いた古代の浮彫。ローマ出土、現在はフランクフルトのリービークハウス所蔵。 撮影・資料:Carole Raddato / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。画像は閲覧向けに縮小表示。現在の遺構写真は古代の復元図ではない。
牛の血へ近づく蛇や犬、蠍、太陽や月を示す存在が、牛を屠る場面の周囲に並ぶ。動物や天体にかかわる意味があったと考えられているが、図像の細部について研究者の解釈は一つではない。
ミトラス教は「秘儀宗教」と呼ばれる。入信者は小規模な集団で儀式を行い、共に食事をしたとみられる。北方の軍事拠点や都市に神殿が残り、兵士、奴隷、解放奴隷などとの結びつきが知られている。
ミトラス教は軍人との結びつきで知られるが、信者には奴隷や解放奴隷なども含まれていた。
さらに、古代イランのミスラとローマのミトラス教の関係についても、宗教がそのまま東から西へ移植されたと考えることはできない。ローマのミトラス教は独自の図像と儀礼を発達させ、起源の細部には議論が残る。
信者自身が残したまとまった教典は現存していない。今日知られているのは主に建物や図像、銘文などからの推測である。
神殿の遺跡が残っても、その暗い部屋に集まった人々が何を語り、何を恐れ、どのような救いを感じたかは完全には復元できない。歴史には、石に刻まれた部分と、消えてしまった部分がある。
キリスト教と帝国の秩序
ローマ帝国の支配者たちは、多くの神々を迎え入れる一方、唯一神を信仰するユダヤ人の共同体とも長く接していた。
ユダヤ教は、古くから唯一神を信仰し、律法や共同体の伝統を守ってきた。地中海の各地にはユダヤ人の共同体があり、ローマの支配下でも宗教生活を営んだ。
ユダヤ人の信仰はその古さを理由にローマ側から一定の特別扱いを受けることもあったが、政治的な緊張がなくなったわけではない。
ユダヤ属州ではローマの支配への反発と宗教的な問題が重なり、66年に反乱が始まった。70年にはエルサレムの神殿がローマ軍に破壊される。その後も抵抗や戦争が続き、ハドリアヌス帝期には132〜135年ごろのバル・コクバの反乱が起きた。
反乱の背景には宗教的な緊張だけでなく、ローマによる政治的な支配や統治政策への反発があった。ローマによる政治支配、地域社会の対立、統治政策、経済的な事情なども絡んでいた。
ユダヤ教とローマとの関係は、宗教の自由を認めるか否かだけでは説明できない。多神教の帝国が一神教の共同体を統治するとき、政治と宗教の境界がどれほど曖昧になるかを示している。
このユダヤ世界の中から生まれたのが、キリスト教だった。
キリスト教は1世紀、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ地方から始まった。
イエスはローマの総督ポンティウス・ピラトゥスの時代に処刑された。その死後、信者たちは彼の復活を信じ、その教えを広めた。初期の運動はユダヤ教の文脈の中で始まったが、やがてユダヤ人以外の人々にも広がっていく。
使徒パウロの活動と書簡は、その広がりを知る重要な資料だ。地中海の都市を結ぶ交易路と共通言語であるギリシャ語は、商人や旅人だけでなく、宗教的な考え方の伝播にも役立った。
信仰を運んだのは、帝国の道路や港を利用して行き来した人々だった。信者の人間関係、地域のユダヤ人共同体、家での集会、都市ごとの事情、教義をめぐる対話が重要だった。
初期キリスト教徒は、家庭や比較的小さな場所に集まり、祈り、食事を分かち合い、教えを伝えた。
その姿を、帝国の行政官はどう見たのだろう。
信仰の広がりとともに、地方の行政官には新しい問題が持ち込まれた。
西暦112年ごろ、現在のトルコ北西部に当たるビテュニア=ポントゥスを統治していた小プリニウスは、皇帝トラヤヌスへ手紙を送った。
困っていたのは、キリスト教徒を名乗る人々をどのように裁けばよいか、という問題だった。
プリニウスは、自分には明確な前例が分からないと述べ、尋問した人々について報告する。そして、自分が皇帝像と神々の像を用意し、それに香や葡萄酒を捧げた者を釈放したと書いている。
なぜそんなことをしたのか。皇帝像に供物を捧げることは、公的な宗教儀礼に参加する意思を示す行動だったからである。一方、キリスト教徒にとっては、ほかの神々へ祭祀を行うこと自体が信仰と衝突しかねなかった。
トラヤヌスの返事は興味深い。
皇帝は、キリスト教徒を積極的に探し回る必要はないと指示した。一方、告発されて事実が認められ、信仰を捨てない者には処罰を認めた。匿名の告発は受け付けてはならないとも述べた。
地方の判断、告発、宗教的な行動の有無などが事件を左右した。
何より、プリニウスは信者たちが集まり、キリストへ賛歌を歌い、盗みや不正をしないと約束したことも報告している。ローマの行政官から見た、まだ少数派だった宗教の一端が記録に残った。
小プリニウスとトラヤヌスの往復書簡(第10巻96・97)は、国家と宗教の衝突が、抽象的な教義の議論ではなく、実際の裁判と行政の問題だったことを伝えている。
トラヤヌスの統治については、五賢帝の歴史でも詳しく扱っている。
その後、国家が祭祀を広く求める政策が始まる。
ローマ帝国とキリスト教の歴史では、迫害がとくに印象に残る。信仰を捨てずに処刑された人々は、後に殉教者として記憶された。
迫害の規模や制度は、時代と地域によって異なった。都市の住民の反発や地方行政官の判断による事件もあれば、皇帝の命令が帝国各地に影響した時期もある。
3世紀半ばのデキウス帝の命令は、大きな転機だった。住民に神々への犠牲祭を求め、その実施を証明する文書が発行されたことが知られる。エジプトからは実際の証明書が残っている。
デキウスの命令は住民一般に祭祀を求めるものだったと考えられている。ほかの神々に供物を捧げられないキリスト教徒は、そこで特に困難な立場に置かれた。
続くヴァレリアヌス帝の時代にも迫害が起き、4世紀初めにはディオクレティアヌス帝らのもとで、いわゆる大迫害が始まった。
国家の祭祀は、都市の秩序と繁栄に参加する行為でもあった。ほかの神々への供物を拒むキリスト教徒の行動は、その社会的な慣習と衝突した。
当時は、公的な祭祀に参加することが、都市共同体や国家の安全へ協力する行動にもなっていた。
キリスト教徒は「ほかの神々を追加しない」だけでなく、「公共の儀礼にも参加できない場合がある」という点で、ローマの社会秩序とぶつかったのである。
迫害の記録とともに、初期の信者自身が残した美術も伝わっている。
古代ローマのキリスト教を知るには、皇帝の法律だけでなく墓地の絵画を見る必要がある。
ローマ郊外の地下墓所、いわゆるカタコンベには、初期キリスト教に関わる壁画や碑文が残された。

プリスキラの地下墓所に由来する「善き羊飼い」の初期キリスト教壁画。古代の絵画資料であり近代の解説画ではない。 撮影・資料:原画は3世紀、1903年刊ジョゼフ・ウィルペルトの図版を通じて伝わる資料 / Wikimedia Commons / Public domain。画像は閲覧向けに縮小表示。現在の遺構写真は古代の復元図ではない。
これは「善き羊飼い」と呼ばれる表現で、肩に羊を担いだ若い人物が描かれている。キリストを、信徒を導き守る羊飼いの姿で表現したものと理解される。
羊を担ぐ若い人物の姿には、古代の地中海世界で知られた美術表現が残っている。初期のキリスト教美術には、当時の地中海世界ですでに親しまれていた人物表現や装飾が取り込まれていた。
初期キリスト教の絵画は、ローマ世界で親しまれた表現を受け継ぎながら、信徒自身の信仰を描いた。
カタコンベは主に埋葬のための場所だった。墓所に残る壁画からは死者を悼み、死後の希望を描いた人々の信仰が伝わってくる。
地下墓所に残る絵画から分かるのは、古代のキリスト教徒も、家族の死を悼み、死後の希望を考え、その願いを目に見える形で残したことだ。
小さな家の祭壇で家族の安全を祈ったローマ人と、墓の壁に救いの姿を描いたキリスト教徒。信じる神は違っても、日々の不安や死への向き合い方には、共通する人間の姿がある。
皇帝たちが選んだキリスト教
4世紀初め、ローマ帝国は複数の皇帝や皇位請求者が争う政治的な状況にあった。
その一人がコンスタンティヌスだった。
312年、ローマ近郊のミルウィウス橋の戦いで、コンスタンティヌスはマクセンティウスに勝利した。彼は後に、キリスト教と結びつく宗教的な意味をこの勝利に与えたことで知られる。
戦いの前に天上のしるしを見たという伝承は、古代の著述家によって異なる形で語られている。細部は確定できないが、皇帝の勝利とキリスト教が結びつけられていったことが分かる。

ローマに残るコンスタンティヌスの凱旋門。ミルウィウス橋の戦いの勝利を記念し、315年に奉献された。 撮影・資料:Artmartxx / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。画像は閲覧向けに縮小表示。現在の遺構写真は古代の復元図ではない。
写真の凱旋門は、彼の戦勝を記念して315年に奉献されたものだ。そこには古代ローマの勝利の伝統があり、皇帝の権威を市民へ示す目的もある。新しい宗教への支持が強まる時代にあっても、皇帝の表現が一夜で全部変わったわけではなかった。
313年、コンスタンティヌスとリキニウスによる宗教政策は、キリスト教徒を含めた人々の礼拝の自由を認め、没収されたキリスト教共同体の財産の返還を進めた。「ミラノ勅令」として知られるが、実際の文書や制定の経緯は単純な一通の勅令以上に複雑である。
313年に進んだのは信仰の公認と保護であり、唯一の国教と定める政策ではなかった。
迫害から、公認・保護へ。政治の方向が大きく転じたのである。
コンスタンティヌスはキリスト教の聖職者や教会へ支援を与え、教会建築にも関わった。また、教義をめぐる教会内部の対立にも関与し、325年にはニカイア公会議を召集した。
かつては信者の処罰について皇帝に相談していた。今度は教会内部の争いに皇帝が介入するようになった。
皇帝による宗教への支援は続きながら、その中心にはキリスト教の教会が置かれるようになった。
皇帝の後援が始まっても、キリスト教の位置づけはその後も変化した。
公認から数十年を経た380年、皇帝テオドシウス1世らは、ニカイア派のキリスト教信仰を帝国で正統とする法令を出した。これが一般にテッサロニキ勅令と呼ばれるものである。
この命令はコンスタンティノープルの住民へ宛てられ、その後に行われた教会内の人事や政治上の対応と結びついていた。
法令の後も古い祭祀や地域の信仰は残り、変化の速度には大きな地域差があった。
4世紀末には伝統的な祭祀の制限が強まり、391〜392年ごろには公的な犠牲祭などを禁止する法令が重ねられた。しかし、法令を出せば各地の祭壇からすぐ火が消えるわけではない。
地方の神殿は地域社会に根づいており、古い儀礼や習慣も続いた。キリスト教徒の間でも、どの教えを正統とするかをめぐる対立があった。キリスト教が権力の中心へ近づくほど、教会内部の争いが政治上の問題になることもあった。
皇帝の後援と法律、地域の慣習、宗教指導者の活動が重なり、帝国の宗教生活は何世代もかけて変わっていった。
神殿から聖堂へ
新しい宗教が帝国の中心に入ったとき、目に見える変化の一つが建築だった。
古代ローマの神殿は、一般に神像や祭祀に関わる特定の空間を中心に設計され、重要な儀式の一部は建物の外側の祭壇でも行われた。対して、キリスト教の共同礼拝は多くの人が集まる大きな内部空間を必要とした。
そこで新たな教会建築には、ローマの公共建築にも見られたバシリカ式の平面が広く使われるようになる。長い身廊と列柱、奥に続く空間。古代ローマの建築技術は、異なる宗教目的の建物へ受け継がれていった。
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ローマのサンタ・サビーナ聖堂内部。5世紀のバシリカ式聖堂の空間が残る。 撮影・資料:Livioandronico2013 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。画像は閲覧向けに縮小表示。現在の遺構写真は古代の復元図ではない。
ローマのサンタ・サビーナ聖堂は5世紀前半に建てられた。今日の内部も修復や後代の変更を受けているが、初期のキリスト教聖堂の空間構成を知る重要な建築である。
まっすぐに並ぶ列柱を見れば分かるように、宗教の転換は建築文化をまるごと切り捨てたのではなかった。
古代の技術が新しい用途に移り、都市の富や名誉が教会へ集まり、宗教指導者が都市の有力者として存在感を増していく。皇帝と元老院だけではない権威の形が、ローマの街に生まれていた。
放棄された建物、用途が変わった建物、長く使われた聖域、建材として再利用された遺構など、歴史はさまざまだった。
冒頭に見たパンテオンが後に教会となって保存されたことも、こうした変化の中で理解できる。
都市の建物が変わる一方、古い神々の記憶は残った。
神々の名前が公的な祭祀から消えても、その記憶がすべて失われたわけではなかった。
ユピテルとウェヌスは文学や彫刻に残り、古典の学習を通じて後の時代にも知られ続けた。古代の建物は、宗教的な意味を変えながら街の一部となった。地域の祭りや慣習の中にも、古い信仰との関係を研究されているものがある。
似た儀礼があることと、そこに確かな歴史的連続性があることは違う。
法律や遺跡には、人々の信仰と皇帝の政策が変わっていく過程が残されている。
公的な祭祀に参加することが都市の一員である証しだった時代。皇帝の像の前で香を焚くかどうかが裁判の争点になった時代。皇帝が教会へ資金と法的な特権を与えた時代。
ローマの宗教史は、信仰が人間の内面だけでなく、権力や共同体の仕組みにも深く関わることを示している。
ローマ人が何を信じていたかは、時代と土地、そして暮らす人々によって異なっていた。
帝国の中心にあった伝統的な神々。日々の食卓のそばで祀られた家の守護神。国家の火を守るウェスタの巫女。皇帝の権威と結びついた公的な儀礼。ポンペイで讃えられたイシス。小さな集会室に描かれたミトラス。ユダヤ人共同体の信仰。そして、家や墓所に足跡を残した初期キリスト教徒。
人の移動、戦争、交易、政治、家族生活の中で、互いに影響し合っていた。
ローマ帝国の歴史を皇帝や軍団だけで追うと、宗教の変化は突然の大転換に見える。しかし、家の壁画、祭壇、手紙、墓所の絵、聖堂の柱を一つずつ見ていくと、変化は長く続く暮らしの中で起きていたことが分かる。
多くの神々を受け入れる柔軟な社会だったローマで、ほかの神々を祀らない宗教は、ときに危険視された。その宗教がやがて皇帝に支えられると、今度は国家が宗教上の正しさを定めようとした。
パンテオンの天窓は、今日も古代の人々が見上げたのと同じ場所に光を落としている。あの巨大な円堂には、神々の名が変わっても、人々が祈りの場所を使い続けてきた歴史が刻まれている。
その歴史は、ローマ帝国の通史と合わせて読むと、なぜキリスト教の時代になっても東ローマ帝国が長く「ローマ」の名を受け継いだのか、さらに見通しやすくなるだろう。
宗教の変遷をたどる年表
| 時期 | 宗教史における出来事 |
|---|---|
| 紀元前204年 | キュベレ(マグナ・マテル)の祭祀がローマに導入される |
| 紀元前1世紀 | イシス信仰がイタリアにも広がっていく |
| 紀元前27年以後 | アウグストゥスの新しい政治体制とともに皇帝家の祭祀が発展 |
| 1世紀 | ユダヤ地方に始まったキリスト教が地中海の都市へ広がる |
| 70年 | エルサレムの神殿がローマ軍によって破壊される |
| 112年ごろ | 小プリニウスがトラヤヌスにキリスト教徒の扱いを相談 |
| 249〜250年ごろ | デキウス帝期の広範な犠牲祭要求 |
| 303年以降 | ディオクレティアヌスらによる大迫害 |
| 311年 | ガレリウス帝によるキリスト教への寛容の措置 |
| 313年 | コンスタンティヌスとリキニウスの宗教政策によりキリスト教徒への保護が進む |
| 325年 | ニカイア公会議 |
| 380年 | テッサロニキ勅令。ニカイア派信仰の公的な地位が明確になる |
| 391〜392年ごろ | 伝統的な公的祭祀に対する制限の強化 |
| 5世紀前半 | ローマにサンタ・サビーナ聖堂が建てられる |
| 7世紀初め | 古代建築パンテオンがキリスト教聖堂として奉献される |