紀元前のイタリア半島、ティベリス川のほとりに小さな集落があった。川を渡るのに便利な場所に生まれた都市は、隣人と戦い、同盟を結び、やがて地中海の各地へ勢力を広げていった。
王政の伝説が語られ、共和政の政治家が争い、やがて皇帝が登場する。西暦476年に西側で皇帝が姿を消した後も、東のコンスタンティノープルではローマ人の皇帝が1453年まで国を治め続けた。
小さな都市が大帝国となり、数多くの改革を繰り返した二千年以上の歴史をたどる。

現代に残るフォロ・ロマーノ。 画像:Góngora / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。表示用に縮小。
まず混同しやすいのは、ローマという国家の歴史と、皇帝が支配するローマ帝国の歴史は始まりが違うという点だ。
伝承上のローマ建国は紀元前753年。共和政の成立は伝統的に紀元前509年。初代皇帝アウグストゥスの支配が制度として形になった紀元前27年を、一般にローマ帝政の出発点とする。
ただし、ローマは皇帝が登場するずっと前から、外国の都市や土地を支配する「帝国的な国家」だった。共和政時代の対外征服を抜きに、帝政の歴史を説明することはできない。
| 時期 | 主要な出来事 |
|---|---|
| 紀元前753年(伝承) | ロムルスによるローマ建国 |
| 紀元前509年(伝統的年代) | 王政の終わりと共和政の始まり |
| 紀元前264〜146年 | ポエニ戦争。カルタゴとの長い抗争 |
| 紀元前133〜31年ごろ | 土地問題・内戦・軍人政治・共和政の危機 |
| 紀元前44年 | カエサル暗殺 |
| 紀元前27年 | アウグストゥスが初代皇帝としての体制を確立 |
| 西暦117年 | トラヤヌス帝のもとで領土がおおむね最大に |
| 212年 | 帝国内の自由民に広くローマ市民権を付与 |
| 235〜284年 | いわゆる「3世紀の危機」 |
| 293年 | ディオクレティアヌスが四帝分治体制を整える |
| 313年 | キリスト教を含む信仰の自由を認める政策 |
| 330年 | コンスタンティノープルを新しい帝国の中心に |
| 395年 | テオドシウス1世の死後、東西に別の皇帝が並ぶ |
| 410年・455年 | ローマ市がそれぞれ西ゴート人・ヴァンダル人に略奪される |
| 476年 | 西側の皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位される |
| 527〜565年 | 東ローマのユスティニアヌス1世が統治 |
| 1204年 | 第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領 |
| 1261年 | 東ローマ側が首都を回復 |
| 1453年 | オスマン帝国がコンスタンティノープルを征服 |
この長い年月の出発点は、ティベリス川のほとりの小さな都市にある。
七つの丘から地中海へ
ローマには有名な建国神話がある。双子の兄弟ロムルスとレムスが川へ流され、雌オオカミに育てられた。やがて二人は都市の建設をめぐって対立し、ロムルスがレムスを殺してローマを建国した――という物語だ。
魅力的な話だが、これをそのまま歴史的事実と見なすことはできない。紀元前753年という年も、後のローマ人が伝承を整理して定めた年代だ。
考古学が示しているのは、ティベリス川の近くにあった複数の丘に、古くから人が住んでいたということだ。川を渡る場所に近く、内陸と海を結び、ラティウム地方の集落やエトルリア人の都市と接触できた。そこは、巨大帝国の首都になると分かっていた土地ではない。交易と防衛に都合のよい、小さな集落の集まりだった。
初期のローマは、周囲の人々から多くを学んだ。エトルリア人の都市文化や宗教儀礼、南イタリアに広がったギリシャ人の文化の影響も受ける。ローマ文化は孤立した天才の発明ではなく、異なる人々の習慣を取り込みながら形づくられた。
伝承では七人の王がローマを治め、最後の王が追放されたことで共和政が始まったという。紀元前509年をその年とするのが伝統的な説明だが、実際の政治体制がどのような過程で変わったかには不明な点が残る。
一つ確かなのは、ローマ人が後世にわたり「王」という言葉をひどく嫌ったことだ。それは、後に皇帝が登場したときに重要な意味を持つ。
王政の伝説のあと、共和政の政治体制が発達した。
共和政のローマでは、国家の最高職である執政官を原則として二人置き、任期を一年とした。権力が一人に集中するのを防ごうとしたのである。
共和政の議会や選挙は、現代の一人一票の政治とは違い、財産や社会的地位による偏りが大きかった。元老院は有力家門が大きな影響力を持ち、女性や奴隷、非市民の多くは政治参加から排除されていた。
政治を支配していた貴族的な家門と、一般市民である平民の間には長い対立があった。平民側は独自の代表を選び、法律や公職へのアクセスを少しずつ広げていく。護民官という役職が重視されたのも、支配する側の決定に異議を唱えるためだった。
共和政の制度は政治的な衝突を経て整えられ、公職と慣習が積み重ねられていった。
対外戦争でも、ローマは必ずしも敵を完全に排除しなかった。服属した都市と同盟を結び、条件を違えながら権利や義務を与えた。ローマ市民としての地位を得る人々も増えた。征服した相手を兵士の供給源や協力者へ変えていく仕組みは、イタリア半島を一つの強力な勢力圏にまとめるうえで役立った。
もちろん、寛容な統合だけで勢力が広がったわけではない。敗者には土地の喪失、貢納、軍役、奴隷化といった厳しい結果も待っていた。勝者が安定した同盟を築けた背景には、従わなければ武力を行使するという圧力があった。
イタリアの同盟網を背景に、ローマの軍隊は海を越えた。
紀元前3世紀、ローマの前に地中海の大国カルタゴが立ちはだかった。現在のチュニジア付近に本拠を置いたカルタゴは、海上交易と艦隊に強みを持つ国家だった。
ローマとカルタゴの間には、紀元前264年から146年まで、断続的に三度のポエニ戦争が起きた。
最初の戦争では、ローマは大規模な海軍力を整えながらシチリアをめぐって戦った。そして第二次ポエニ戦争で、カルタゴの名将ハンニバルがアルプスを越え、イタリア半島へ進軍する。
紀元前216年のカンナエの戦いで、ローマ軍は歴史に残る大敗を喫した。それでもローマは降伏しなかった。イタリアの同盟網から兵力を集め、戦争を続け、最終的には北アフリカに反撃を仕掛けた。紀元前202年のザマの戦いで、スキピオがハンニバルを破る。
この勝利によって、ローマは西地中海の覇権を強めた。続いてギリシャやマケドニアなどの東地中海世界にも深く介入する。紀元前146年にはカルタゴが破壊され、ギリシャのコリントスも制圧された。
なぜローマはこれほど勝ち続けられたのか。
敗北の後にも軍を立て直せる動員力、イタリアの同盟関係、長期にわたって戦争を続ける政治的な意思が組み合わさっていた。さらに征服の成功が、新しい土地、税収、戦利品、奴隷をもたらし、次の戦争を支えるようになった。
対外戦争を支えていた軍隊は、やがてローマ人同士の内戦にも使われるようになる。
共和政の崩壊と最初の皇帝
ローマが地中海を支配するほど、政治の舞台は都市ローマの外へ広がっていった。遠い属州を誰が統治するのか。そこからの税や戦利品を誰が受け取るのか。兵士として遠征した市民は、故郷でどのように暮らすのか。
長い戦争は農民の生活にも影響を与えた。土地を失う人々がいる一方、富裕層の一部は大きな農地や奴隷労働を利用する経営を拡大していく。地域差は大きく、経済史の研究でも議論が続いている。
紀元前133年、ティベリウス・グラックスは土地の再配分をめぐる改革を進めようとした。しかし政治的対立は暴力へ変わり、彼は殺された。弟のガイウスも改革に挑み、やがて命を落とす。
ここから共和政の危機が一直線に深まったわけではないが、政治的な敗北が、そのまま命の危険になる時代が始まっていた。
マリウスやスッラといった将軍は、国家の外敵だけではなく、国内の政敵に対しても軍事力を行使する。兵士にとって、遠い元老院より、土地や報酬の獲得を約束する将軍のほうが重要な存在になっていくこともあった。
共和政の制度は、都市国家の政治を前提につくられていた。それなのに、支配する領土は地中海全体へ拡大していた。権力、富、軍隊を一つの都市の政治家たちが競い合う仕組みには、次第に無理が生じたのである。
共和政の政治闘争は、やがて将軍たちの内戦へと発展する。
共和政末期に軍事的な名声を高めたのがユリウス・カエサルだった。皇帝を中心とする体制は、彼の死後、養子となったオクタウィアヌスの時代に成立した。
カエサルは、ポンペイウスやクラッススと政治的に協力し、ガリア遠征で軍事的名声を高めた。現在のフランス周辺を含む広い地域への戦争を通じて巨大な権力を獲得する一方、現地には深刻な犠牲も残した。
紀元前49年、カエサルはルビコン川を越えて軍をイタリアへ進める。後世の人々が「ルビコン川を渡る」を引き返せない決断の比喩に使うのは、この出来事からだ。
内戦の末にカエサルはポンペイウス勢力を破り、事実上、国家の中心に立った。独裁官の権限を長期間持つ一方、行政や暦などの改革を進める。しかし、彼の権力集中は「王を追放して始まった共和政」を守るはずの人々に、強い恐怖を与えた。
紀元前44年3月15日、カエサルは元老院議員らによって暗殺された。
暗殺者たちは共和政の自由を取り戻そうとした。だが、カエサルが死んでも、軍隊を持つ政治指導者たちの争いは終わらなかった。一人の独裁者を排除しても、その独裁を生み出した仕組みは残ったのである。
そしてその後の内戦で生き残るのは、カエサルの後継者となった若いオクタウィアヌスだった。
カエサルの死後も争いは続き、オクタウィアヌスが勝利した。
紀元前31年、オクタウィアヌスはアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの勢力に勝利し、ローマ世界の覇権を握った。翌年にはエジプトを支配下に置く。
そして紀元前27年、元老院は彼に「アウグストゥス」という尊称を授ける。ここが一般に帝政ローマの始まりとされる。
共和政の役職、元老院、民会を形式上は残し、その上で軍事・政治・宗教の主要な権限を自分へ集中させた。
彼は自分を**プリンケプス(第一人者)**として位置づけた。「王」への嫌悪感が強い社会で、新しい支配者になるための巧妙な政治だった。
もしカエサルが、共和政の枠を壊して大きすぎる権力を握った人物だったとすれば、アウグストゥスはその権力が長く続く形を探した人物だった。
都市ローマでは大規模な建築が進み、地方では行政の再編が行われ、軍隊は長期にわたる常備の仕組みへ整えられていく。辺境には要塞や道路が築かれ、兵士が駐屯した。税収や属州の統治も再編された。
ローマによる征服を受ける人々、奴隷にされた人々、軍役や税を負担する住民にとって、帝国の拡大は苦痛を伴った。アウグストゥス自身も、権力を握るまでには内戦と粛清を経験している。
いわゆる「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」は、帝国の中心に安定が生まれたことを表す言葉だ。同時に、それはローマの軍事的優位の上に成立した平和でもあった。
繁栄した帝国の内側
帝国の首都や港町に暮らす人々の住居、仕事、食事や浴場の歴史は、古代ローマ人の暮らしで、実際の遺構をもとにたどっている。
西暦1世紀から2世紀にかけて、ローマ帝国は広大な交易圏をつくった。ローマ人は地中海を「われらの海」と呼ぶことがあった。
スペインのオリーブ油、ガリアの製品、北アフリカとエジプトの穀物、東方の香辛料や奢侈品。船は港から港へ動き、道路は軍隊・商人・行政官を各地へ運んだ。都市には水道橋、公共浴場、劇場、市場、神殿が建てられていく。
こうした施設はローマ文化の象徴だが、征服地を統治するための装置でもあった。道路は商業に便利なだけでなく、軍を素早く動かせる。都市は住民の生活空間であると同時に、税の徴収、行政、地域支配の拠点となる。
西暦117年、トラヤヌス帝の統治末期にローマ帝国の領土はおおむね最大となった。

赤色が117年のローマ帝国、桃色は従属・同盟関係の国家。現代作成の歴史地図。 画像:Tataryn / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。表示用に縮小。
地図を見ると、なぜローマがこれほど強力だったのか、その一端が見えてくる。帝国は地中海の周囲にまとまり、海を巨大な輸送路として使うことができた。陸上輸送に比べて、大量の物資を遠距離に運ぶには海路が有利だった。
一本の線として描かれる国境も、ローマによる支配の実態は地域ごとに異なっていた。直接統治する属州もあれば、ローマと協力する王国や、軍事的な影響の及ぶ地域もあった。中央政府の力は場所によって違った。
現地の都市と有力者を統治に参加させる仕組みが、帝国の広大な領土を支えた。
広い領土を治めるために、地方の都市と有力者が行政を担った。
各地の都市と地方有力者は、行政、徴税、宗教儀礼、公共建築で重要な役割を果たした。
地方の富裕層にとって、ローマの支配に協力することは権威を高める道にもなりえた。町に浴場や広場をつくり、祭典を開き、ローマ的な教育や法を取り入れる。その一方で、地方の言語や信仰、生活習慣も残り、地域ごとに異なる文化が生まれた。
ローマの行政制度が広がる一方、地域の言葉や習慣も続いていた。ギリシャ語が支配的な東地中海と、ラテン語の影響が強くなる西地中海では、使われる言葉も文化的な背景も異なった。
また、ローマ市民権は最初から帝国の全員が持っていたわけではない。市民であることには法的な意味があり、一定の権利や義務が伴った。地方出身者にも市民権が広がり、やがて属州出身の人々が皇帝になる時代が訪れる。
そして212年、カラカラ帝が出した命令は、帝国内のほぼすべての自由民にローマ市民権を広げた。これは多様な背景を持つ人々を一つの政治体の市民として扱う、大きな転換だった。例外や法的細部はあるが、ローマがもはや一都市の特権集団ではなくなっていたことは明らかだ。
市民権が広がっても奴隷制は続き、帝国は依然として奴隷労働に深く依存していた。
都市の暮らしを支えたのは、農村や工房で働く人々だった。
古代ローマの写真といえば、壮麗な神殿、舗装された道路、白い大理石の彫像が思い浮かぶ。しかし、それを建て、修理し、食料をつくり、家々で働いた人々の存在は写真から見えにくい。
ローマ世界の経済の中心は農業だった。大多数の人々は農村で暮らし、穀物やオリーブ、ブドウなどを育てた。都市の繁栄は、農村の余剰生産や、遠くから運ばれてくる食料に支えられていた。
奴隷制も重要な役割を持った。奴隷にされた人々は農園、鉱山、家事、工房、教育などさまざまな場で働いた。身分と仕事の種類は多様だったが、自由を奪われているという点は共通している。
ローマが「豊かな社会」だったといっても、その豊かさは均等に分配されていなかった。富裕な都市住民が多くの奴隷や土地を所有する一方、日雇いの労働者や小農、奴隷にされた人々の生活は不安定だった。
女性たちも都市や農村の経済に参加し、財産を所有する場合もあったが、政治的権利や社会的な立場は男性と同じではなかった。帝国の歴史を皇帝や将軍の記録だけから読むと、こうした人々の存在は簡単に消えてしまう。

西暦1世紀後半に建設された円形闘技場。2020年撮影。 画像:FeaturedPics / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。表示用に縮小。
コロッセオは、帝国の権力と建築技術を象徴する建物だ。西暦1世紀後半、フラウィウス朝の皇帝たちの時代に建設され、剣闘士の試合や猛獣を使う見世物などが開かれた。何万人もの観客が集まった一方、見世物に参加させられた人々の多くは、自分の自由な選択でそこに立っていたわけではない。
コロッセオでは市民の娯楽と皇帝の権威が一つになり、人間の死も見世物となった。
帝国が繁栄した時代にも、国境の戦争と皇位継承の問題は残った。

トラヤヌス記念柱。撮影・出典:Wknight94 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。
五賢帝の皇位継承や属州の暮らしは、五賢帝の84年間で詳しく取り上げている。
ネロの死後、69年には皇帝候補が相次いで争い、ついにウェスパシアヌスが勝ち残る。皇帝の地位は世襲だけで決まるわけではなく、軍事力と政治的な支持によって争われた。
その後、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスという皇帝たちは、後世に「五賢帝」と呼ばれてきた。西暦96年から180年ごろまで、帝国が比較的安定していた時代の象徴である。
トラヤヌスはダキアなどへ遠征して領土を拡大した。ハドリアヌスは領土の維持と国境の安定を重視し、ブリタニアには現在も一部が残る長城を築かせた。アントニヌス・ピウスの時代には行政的な安定が続いた。
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2世紀に再建されたローマのパンテオンの内部。2015年撮影。 画像:Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。表示用に縮小。
この時代のローマには、建築技術の成熟を示すパンテオンがある。現在の建物は主にハドリアヌス帝期の再建によるものとされ、巨大なドームの中央には採光用の開口部がある。現代まで姿を残したことは、ローマの建築技術がどれほど巧みだったかを物語る。ローマ・コンクリートがひびを修復する可能性についても、現代の研究が続いている。
ローマの国境で戦争は続き、ユダヤ地方では大規模な反乱が起きた。マルクス・アウレリウスの時代には疫病や国境地帯の戦争が重なった。
そもそも「賢帝」という評価は、後世の政治思想や歴史叙述の影響を受けている。ローマの支配を受ける人、戦争で故郷を失った人、奴隷にされた人にとって、帝国が「黄金時代」だったかどうかは別問題だ。
繁栄が存在したことと、その恩恵が誰に届いたかは、分けて考える必要がある。
危機の3世紀と帝国の再編
ローマ帝国の皇帝には、意外なほど単純な問題があった。次の皇帝を誰が選ぶかについて、安定した一つの仕組みがなかったのである。
ローマでは、皇帝が自分の子を後継者にしようとすることもあれば、養子を後継者として選ぶこともあった。軍団や近衛兵が新しい皇帝を支持し、元老院が承認する場合もある。権威ある皇帝が死ぬと、正当な後継者を決める争いが起こりやすかった。
この問題が非常に深刻になったのが3世紀の危機だ。
235年に皇帝セウェルス・アレクサンデルが殺害された後、皇帝が短期間で交代する時代に入る。国境ではゲルマン系の集団やササン朝ペルシャとの戦争が続き、軍隊を維持する費用も重くなっていく。
皇帝が軍の支持を得ようとして兵士への支払いを増やせば、財政負担が増す。貨幣の貴金属含有量を減らす政策が重なると、価格や取引への信頼にも影響する。貨幣の改鋳、物価、地域経済の変化は複雑で、現代的な「ハイパーインフレ」とそのまま同一視すべきではないが、国家の経済運営が難しくなっていたことは確かだ。
やがてローマ帝国の一部では、中央の皇帝とは別の支配者が台頭した。西方にはガリア帝国、東方にはパルミラ勢力が現れる。
それでも帝国は消えなかった。アウレリアヌス帝は3世紀後半に分裂勢力を打ち破り、領土の統一を回復した。帝国には、なお強い軍事力と行政の基盤が残っていたのである。
一度危機を乗り越えただけでは十分でない。次に求められたのは、皇帝一人に負担が集中する仕組みそのものを変えることだった。
3世紀の危機から立ち直るために、国家の仕組みが組み直された。
284年に皇帝となったディオクレティアヌスは、帝国の統治を大きく組み直した。地方行政の区分を見直し、軍事と民政の職務を分けるなど、国家の統制を強めようとする。
その最も有名な試みが、293年に整えられた**四帝分治制(テトラルキア)**だ。
二人の上位皇帝(アウグストゥス)と二人の下位皇帝(カエサル)が、それぞれ担当する地域を持ち、国境の防衛や統治に当たる。一つの帝国を複数の皇帝が分担して治めようとしたのだ。
地中海全体を支配する国家では、ブリタニアやライン川の国境に問題が起きたとき、皇帝がすぐ駆けつけるのは難しい。さらに東方のペルシャとの戦争が同時に起きれば、一人の皇帝だけでは対処できない。
複数の皇帝を置けば、国境近くで素早く判断できる。後継者もあらかじめ決めておける。しかし、制度をつくれば権力争いが消えるわけではなかった。ディオクレティアヌスが退位すると、皇帝同士の競争は再び激しくなる。
それでも彼の改革は、後期ローマ帝国の国家の姿を変えた。帝国は元老院を中心とした古い都市国家の形式から、より大きな行政機構と軍事指揮の体制を備えた国家へと変わっていった。
そして次の転機をもたらすのが、皇帝コンスタンティヌスだった。
行政改革とともに、国家の宗教政策も転換した。

コンスタンティヌス凱旋門。撮影・出典:Artmartxx / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。
帝国の宗教の変化は、ローマ人は何を信じていたのかで詳しくたどっている。
コンスタンティヌスは皇位をめぐる争いに勝ち、324年に帝国の支配を統一した。そして330年には、ボスポラス海峡に面した都市ビュザンティオンを拡張し、コンスタンティノープルを帝国の新しい政治的中心として整えた。
この場所は、黒海と地中海、ヨーロッパとアジアを結ぶ重要な交通の結節点だった。帝国の富や軍事上の重点が東方に移りつつあったことを考えれば、この選択には大きな意味があった。
もう一つの重要な変化は宗教だ。
当初、ローマ帝国には多様な神々や地域信仰が存在した。キリスト教もその一つとして広がったが、信徒が迫害される時代もあった。とくにディオクレティアヌスの時代には、大規模な迫害が行われた。
コンスタンティヌスの時代、313年に出されたミラノの勅令として知られる政策は、キリスト教を含む信仰の自由を認め、没収されたキリスト教徒の財産の返還などを進めた。
313年は主に信仰の公認と寛容の転換点だ。キリスト教が国家の公式な宗教政策の中心に据えられるのは、4世紀後半、テオドシウス1世の時代に進んだ変化である。
ローマ帝国は、皇帝が神々の儀礼を支える多神教的な国家から、キリスト教の教会と深く結びつく国家へと徐々に変貌した。古い習慣が一夜で消えたわけではない。地域によって変化の速さは違い、宗教をめぐる対立も続いた。
宗教の変化も数世代にわたって続いた。数世代をかけて、国家のあり方そのものが変わっていったのである。
西側の皇帝が消えるまで
確かに395年、テオドシウス1世の死後には、東側をアルカディウス、西側をホノリウスがそれぞれ治めた。
複数の皇帝が支配を分担する方式は、それ以前から何度も使われていた。人々は双方をローマの国家の一部として理解していた。
ただし、東と西では帝国を支える条件が違った。
東方にはコンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキアなどの大都市があり、人口と税収を支える豊かな地域も多かった。西方でもローマやラヴェンナなどの重要都市は存在したが、広い国境を守るために軍事費がかさみ、政治的な権力争いも続いた。
4世紀末から5世紀にかけて、ヨーロッパ各地で大規模な移動や軍事的な衝突が続いた。ゴート人やヴァンダル人などの集団は複雑な出自や政治的な関係を持ち、ローマの軍隊で働いたり、ローマ領内に居住を認められたり、時には帝国に敵対したりと、関係は複雑だった。
ローマ側にも、こうした集団を同盟者や兵士として迎え入れる事情があった。国境を守るには人手が必要だったのだ。
ところが軍事的な協力と政治的な対立が入り混じると、中央政府は自らの軍事力をどこまで確実に指揮できるのか、という問題に直面する。
西側では財政と軍事の基盤が弱まっていった。
376年、ゴート人の大きな集団がドナウ川を越えて帝国内に入り、居住を求めた。受け入れの過程で行政の不正や食糧不足、対立が生まれ、ローマ軍との戦争へ発展する。
378年のアドリアノープルの戦いでは、東側の皇帝ウァレンスが戦死した。ローマ帝国がもはや無敵でないことを象徴する出来事だったが、この一戦だけで国家が崩壊したわけではない。
410年、西ゴート人の王アラリックの軍がローマ市に侵入し、略奪を行う。永遠の都とされたローマが攻撃を受けた衝撃は大きかった。しかし、この時代の西側の政治の中心はすでにローマ市だけではなく、ラヴェンナなどにも置かれていた。
その後も西方の帝国政府は生き延びたが、領土と税収を維持することがますます難しくなった。重要なのは、いくつもの問題が連鎖したことだ。
西方の属州が失われると、そこから入る税収が減る。税収が減れば、軍隊の維持が難しくなる。軍隊が弱くなると、さらに領土を失いやすくなる。中央の皇帝が短期間で交代したり、実権を握る軍人同士が争ったりすれば、防衛に集中することも難しい。
軍を維持するための税と人員を集める仕組みが、各地で弱まっていった。
476年、イタリアで軍を率いたオドアケルは、西側の皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させた。これが西ローマ帝国の終わりとして教科書に登場する出来事だ。
ロムルス・アウグストゥルスには正統性を認めない人々もおり、東側に亡命していたユリウス・ネポスは480年まで西側の皇帝の地位を主張し続けた。476年の後も、イタリアではローマの制度や文化が引き続き使われていた。
何よりも、帝国の東半分は引き続き存在していた。
476年に西側の皇帝政権は終わったが、東の政府は続いていた。
東に続いたローマ人の国家
コンスタンティノープルを首都とする東側の国家は、現在では「東ローマ帝国」あるいは「ビザンツ帝国」と呼ばれることが多い。
コンスタンティノープルの人々は自らをローマ人、すなわちロマイオイと考え、皇帝もローマ皇帝の権威を受け継いでいた。
言葉としての「ビザンツ帝国」は、後世の歴史研究で定着した呼び名だ。古代のラテン語中心の帝国とは、言語も宗教も社会も大きく変わっていったが、国家としての連続性は残った。
東側が長く存続した理由は、一つではない。比較的豊かな東地中海の経済基盤、コンスタンティノープルの戦略的な位置と強固な防衛設備、外交や軍事組織の柔軟性が組み合わさっていた。
東ローマはペルシャ帝国との戦争、アラブ勢力の急速な拡大、国内の皇位争いなど、深刻な危機を何度も経験した。それでも政府と軍隊、法と税制を再編しながら生き延びる力があった。
6世紀の皇帝ユスティニアヌス1世は、失われた西方の領土を取り戻そうとした。北アフリカやイタリアなどの一部を再征服したが、その戦争は多大な費用と犠牲を伴った。再び広げた領土のすべてを長く維持することはできなかった。
同じ時代に進められたローマ法の集成は、後世の法律文化へ重要な影響を残した。そして首都には、巨大なドームを持つハギア・ソフィア大聖堂が建設された。

6世紀に建設されたハギア・ソフィアの内部。2018年撮影。 画像:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。表示用に縮小。
6世紀のハギア・ソフィアに入った人は、かつての共和政ローマの市民とは、違う言葉で話し、違う宗教的な世界を生きていたかもしれない。それでも、彼らの政治的な国の名は依然としてローマだった。
東の政府は、数百年をかけて統治と文化を変えていった。
7世紀、東ローマはササン朝ペルシャとの長い戦争に苦しみ、その後に急速に拡大したイスラーム勢力によって、シリアやエジプトなど多くの領土を失った。古代地中海をほぼ囲んでいた帝国は、東地中海に中心を置く、より小さな国家へと変わっていく。
行政や軍事の仕組みも変化し、帝国の政治と文化ではギリシャ語がいっそう重要になった。ローマという名を引き継ぎながら、古典期のローマとはかなり違う国になっていったのである。
8世紀から9世紀には、聖人やキリストを描いたイコン(聖像)の扱いをめぐって激しい議論が起き、破壊や信仰上の対立を伴った。843年には聖像崇敬の回復が宣言され、東ローマの宗教文化はその後の正教会の伝統へ深くつながる。
9世紀から11世紀には帝国が再び勢力を盛り返し、皇帝バシレイオス2世の時代に大きな軍事的成功を収めた。一方で、1071年のマンジケルトの戦いを含む政治・軍事的な混乱を通じて、アナトリアでの支配は長期的に弱まっていく。
帝国は縮小し、再び伸び、制度を変え、多くの危機を乗り越えた。独自の文化と外交を持ち、ギリシャ、スラヴ、イスラーム世界、西ヨーロッパなどとの接点にあった。
東ローマ帝国は、何世紀にもわたって領土と制度を変えながら続いた国家だった。
コンスタンティノープルの陥落とローマの遺産
東ローマが迎えた最も衝撃的な事件の一つは、1453年よりも前、1204年に起きた。
第4回十字軍は本来、イスラーム勢力に対する遠征として組織された。しかし政治・財政的な思惑や帝国内の権力争いが複雑に絡み、十字軍はコンスタンティノープルを攻撃し、占領した。
しかも、十字軍の参加者はキリスト教徒だった。キリスト教世界の内部の対立が、キリスト教の帝国の首都を破壊する結果へつながったのである。
その後、首都にはラテン帝国が成立し、東ローマの旧領にはいくつもの亡命・継承国家が生まれた。1261年にはニカイアを中心とした勢力がコンスタンティノープルを取り戻す。しかし、失った経済的な基盤や領土を完全に回復することはできなかった。
13世紀から15世紀にかけて、東ローマは周囲の新興勢力に圧迫されながら、小さな国として存続した。国土が縮んでも、皇帝、宮廷、教会、都市の文化は残った。
こうしてローマ人の国家は、長い歴史の最後の幕を迎える。
1204年の危機を乗り越えても、東側の帝国は縮小していった。
1453年、オスマン帝国のスルタン、メフメト2世はコンスタンティノープルを包囲した。東ローマ側の皇帝はコンスタンティノス11世。巨大な帝国の末裔に残された領土は、かつてのローマ帝国とは比べものにならないほど小さくなっていた。
オスマン軍は砲を用い、長年首都を守ってきた城壁に圧力をかけた。東ローマ側は抵抗したが、同年5月29日、コンスタンティノープルは陥落した。コンスタンティノス11世も戦いの中で命を落としたと伝えられる。
これをローマ帝国の終わりと呼ぶなら、初代皇帝アウグストゥスの時代から約1480年が経過していたことになる。国家の連続性の捉え方には議論があるが、古代の地中海世界から中世までをまたいだ非常に長い歴史である。
東ローマの宗教・政治・芸術・文書文化は、その後の東ヨーロッパやバルカン半島、地中海世界へ影響を残した。
また、古代ローマそのものの文化も、数多くの中世国家によって受け継がれたり、意図的に再解釈されたりした。「ローマ皇帝」の称号を名乗る支配者が後世にも現れたことは、ローマが持つ政治的な権威の強さを物語っている。
ローマの国家が終わっても、その法と文化の伝統は続いた。
国家を長く続けた仕組みには、強さと同時に矛盾もあった。
ローマを長く支えたのは、軍隊だけではなかった。イタリアの同盟都市がそれぞれの権利と義務を持ち、帝国の拡大とともに属州の有力者が統治に加わった。交易と税、農村の生産と都市の消費が、遠方の土地をつなげていた。
一方、広大な領土を守るには兵員と税が必要であり、将軍の軍事力は内戦にも利用された。都市の繁栄の背後には農村の労働があり、戦争の捕虜や奴隷にされた人々の仕事もあった。
危機に直面するたびに、皇帝の分担統治や地方行政の再編、宗教政策の転換といった改革が行われた。ローマは長く続くあいだに統治の姿を繰り返し変えていった。
政治的な国家が終わった後も、文化の影響は受け継がれた。
現代ヨーロッパの複数の言語には、ラテン語から発達したものがある。イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語などだ。ローマ法は後世の法制度を考える際に繰り返し参照され、道路、橋、アーチ、ドームなどの建築技術も長く研究されてきた。
キリスト教が地中海世界から広い地域へ広がるうえでも、ローマ帝国は大きな役割を果たした。帝国がその信仰を国の中心に据えたことは、ヨーロッパだけでなく、周辺世界の歴史にも深い影響を与えた。
政治の面では、共和政ローマが権力の分担や公職の任期をめぐる思想に影響を与え、帝政ローマが中央集権的な国家の一つのモデルとなった。その間には長い断絶、再発見、翻訳、批判があった。
ローマの歴史は、国家の統治と権力の集中をめぐる問題も後世に残した。
皇帝が強い権力を握る一方で、各地の都市の自治や異なる言語・文化をどう統合するかという課題があり、軍事的な平和と豊かな都市の生活には大きな費用と労働が必要だった。
数え切れない戦争や改革、混乱、妥協を通じて答えを変え続けた。
初期のローマにあったのは、川のそばの小さな集落だった。それが地中海全体を覆う帝国になり、やがて西では皇帝が消え、東では首都と宗教と言葉を変えながら生き残り、最後は1453年にその政治的な幕を閉じる。
七つの丘の都市から生まれたローマは、地中海を支配し、西で皇帝を失った後も東で言葉と宗教を変えながら続いた。拡大することで生まれた力と、変化することで生き延びた国家の歴史がそこにある。