古代ローマの街路を歩いていると、道の両側に並ぶ煉瓦の壁と、かつて店が開いていた入口が見える。二階へ続く階段の跡があり、その先には人が暮らした部屋があった。石畳はすり減り、家の中庭には雨水を受ける水盤が残っている。
皇帝や軍団の活躍を伝える記念碑と違い、こうした遺構には誰が何時に起きたかは刻まれていない。それでも、どこで眠り、働き、買い物をし、食事を取ったのかという、人々の生活の輪郭は見えてくる。
舞台は、おもに西暦2世紀のローマ帝国である。首都ローマの暮らしを考えるために、近郊の港町オスティアや、西暦79年に火山灰に埋もれたポンペイの資料を合わせて見る。両都市は首都とは人口も役割も異なり、ポンペイは時代も早い。建物と道具を通して、ローマ世界の都市生活を立体的にたどるための手がかりとして使っていこう。
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オスティアのヴィア・ディ・ディアナ。左に集合住宅、右に街区の遺構が残る。 写真・資料:Larry / Wikimedia Commons / CC BY 2.0。
朝のローマ――家の扉の向こうにあった格差
ローマの都市では、同じ街路に面した建物でも、その奥にある暮らしは大きく違っていた。
裕福な市民の住宅は、通りから入った先に広い中庭や客間を持ち、壁画やモザイクで飾られることがあった。一方、賃貸住宅の一室で暮らす人々にとって、家は仕事場に近い寝起きの場所であり、生活の多くは街へ出て営まれた。中には店の奥や上階で暮らす人もいた。
首都ローマの住宅は、集合住宅を意味するインスラと、庭や客間を備えたドムスという名称で説明されることが多い。だが実際の建物は一様ではなく、商店、工房、住居が重なり、階ごとに部屋の広さや用途が違った。インスラという言葉自体も、文脈によって建物だけでなく街区を指す。

オスティアに残る集合住宅インスラの遺構。煉瓦造りの壁がかつての建物の規模を伝える。 写真・資料:Dennis G. Jarvis / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。
オスティアの集合住宅には、複数階の煉瓦造りや商店と住居を組み合わせた建物が残る。かつて上階にあった木製の床や屋根は失われたが、窓の位置、階段の跡、廊下の形から、限られた土地を立体的に利用していたことが分かる。
住宅事情を決めたのは、貧富だけではない。商売をしている家族なら客が入る空間が必要だったし、工房なら材料や道具を置かなければならない。出入りする人が多い場所では、住居の一角が仕事場を兼ねた。首都にどれほどの人口が暮らしたかは正確には分からないものの、巨大な需要に対して住宅を供給することは都市にとって切実な課題だった。
集合住宅では、火災や建物の傷み、上階への水運びが問題になり得た。ローマには水道が引かれていたが、各部屋に現代のような水道設備があるとは限らなかった。公共の泉まで水を汲みに行く人もおり、料理や洗濯のための水を家へ運ぶだけでも労力が必要だった。
そして、裕福な家には別の種類の忙しさがあった。

ポンペイのヴェッティの家のアトリウム。中央には屋根からの雨水を受ける浅い水盤がある。 写真・資料:Mary Harrsch / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。
ポンペイのヴェッティの家に入ると、屋根の開口部の下に雨水を受ける水盤がある。周囲には色鮮やかな壁画が施され、客を迎える部屋と家族の生活空間がつながる。家主は壁画や装飾を通じて、訪問者に富と教養を示すことができた。
ヴェッティの家は、裕福な市民の生活を伝える代表的な建築だ。しかし、この家が興味深いのは装飾の美しさだけではない。ポンペイ考古学公園は、家主たちが解放奴隷として社会的な地位を築いたと考えられることを紹介している。ローマには奴隷という厳しい身分制度があった一方、解放されて財産を築き、都市の有力者になる人もいた。その機会は人によって大きく異なっていたが、裕福さと家柄が常に一致する社会ではなかった。
家の隅には料理をする場所があり、掃除や洗濯、子どもの世話、客のもてなしをする人々がいた。ヴェッティの家の使用人の居住区と考えられる場所は、豪華な客間とは違う配置をしている。家に残された落書きには、エウテュキスという奴隷にされた女性の名も見つかる。史料から彼女の人生全体を知ることはできないが、裕福な家の中で誰の労働が生活を支えていたかを考える重要な手がかりである。詳しくはポンペイ考古学公園による使用人区画の解説に記されている。
朝の身支度を整えた人々が家を出ると、街はすでに商売と仕事の場になっていた。ローマの都市生活は、住宅の外へ広がる活動と切り離せなかった。
街が動き出す――働く人々のローマ
都市の道には商品を運ぶ人、店を開ける人、買い物に出る人が行き交った。パンを焼く店、布を扱う工房、器を売る商人、酒や食べ物を出す店。ローマの暮らしは市場の取引と職人の仕事に深く支えられていた。
ポンペイには、店の入口と居住区がつながった建物、酒を出す店、洗濯工房、パン屋などの遺構が残る。これらを一つの街区で見ると、古代の商店街には商品を売る場所だけでなく、製造する場所や人が寝起きする場所もあったことが分かる。

ポンペイのパン屋の遺構。石臼と焼き窯が同じ作業場に残されている。 写真・資料:Isaac Harjo / ProWalk Tours / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。
パン屋の遺跡には、大きな石臼と窯が並ぶものがある。穀物を粉にひき、生地を作り、焼き、販売するまでにいくつもの作業が必要だった。石臼を動かす力には人や動物が使われ、重労働の多くを奴隷にされた人々が担うこともあった。
できあがったパンは人々の食卓へ届く。店で働く人の一日は、客がパンを買う時間よりずっと早く始まっていたかもしれない。窯の火を維持し、粉を扱い、作業場を片づける。具体的な勤務時間を示す記録はほとんどないが、遺構の配置そのものが仕事の工程を教えてくれる。
布を洗う仕事も大規模に行われた。ポンペイの洗濯工房フッロニカには、布を踏み洗いしたと考えられる設備や水槽が残っている。衣服は何度も洗われ、仕上げられ、客の手元に戻った。新しい衣服を買い続けるより、布を手入れして長く使うことが重要だった。
都市には自由民、解放奴隷、奴隷にされた人々が混在した。奴隷の仕事は農場や鉱山の重労働だけでなく、家内労働、商店、管理、教育にまで及んだ。解放奴隷が商売を営むこともあったが、自由を得る機会やその後の生活は一様ではなかった。富を得た人の記念碑が残る一方で、名も知られずに生涯を終えた人々も多い。
女性の働きも街から消えていたわけではない。家で子どもを育て、衣服や食料の管理をするほか、店や工房で家族の商売を手伝い、独立して仕事をした人もいた。身分と地域、家族の財産によって、できることは大きく違っていた。ローマの法律が女性の立場に制限を設けていた事実と、実際の経済生活に女性が参加していた事実は、同時に見ておく必要がある。
こうした働きの痕跡は、現代の大きな宮殿よりも、普通の店や工房に濃く残ることがある。ポンペイの建物で明らかになったのは、壁画の傑作だけではなかった。人が通った入口、商品を置いた台、作業に使った水槽、炉の位置、店の壁に残した文字である。
では、そこで働いた人々は何を食べていたのだろう。小さな店のカウンターは、はるか遠くの土地へ話をつなげてくれる。
帝国の首都を食べさせる――店の皿から地中海へ
ポンペイの街角には、石造りのカウンターに大きな土器を埋め込んだ飲食店が残る。テルモポリウムと呼ばれる種類の店では、調理済みの食品や飲み物が提供されていた。台の装飾には食べ物や動物の姿が描かれることもある。
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ポンペイ第5地区の飲食店のカウンター。料理や動物を描いた壁画が残る。 写真・資料:Jamie Heath / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。
第5地区で発掘された飲食店からは、器や動物の骨、食物の残りが見つかった。カウンターには水鳥などの絵があり、発見された骨からも肉や魚が扱われた様子を知ることができる。何が毎日の定番料理だったのか、すべてが分かっているわけではない。それでも、見つかった骨や器は、古代の人が現実に食べていたものを伝える。
古代の食生活には、パンや粥、豆類、オリーブ油、野菜、果物、魚醤、ワインなどが登場する。食材の種類は地域や季節、所得によって変わった。富裕層の宴会料理を記した文献が目立つが、それを全住民の食卓と考えることはできない。庶民の食事は、手に入る穀物や豆、野菜を中心に組み立てられた場合が多かったと考えられている。
飲食店は、家で十分に調理する設備を持たない人々にとって便利な場所でもあった。街を行き交う人、商売の途中の人、旅行者、港で働く人。客の姿は店ごとに違っただろう。こうした店を現代のファストフード店にたとえる説明は分かりやすいが、当時の営業方法や品ぞろえが現代と同じだったと確かめられているわけではない。
店先のパンから視線を遠くへ向けると、ローマの都市生活を支えた仕組みが見えてくる。
首都ローマは、周囲の土地で収穫できる穀物だけで膨大な人口を養うことが難しかった。イタリアと地中海の各地で収穫された食料が運ばれ、とりわけシチリア、サルデーニャ、北アフリカ、エジプトなどから穀物が届いた。どの地域への依存が強かったかは時代によって変わったが、海上輸送が首都の生命線であったことは確かである。
積み荷を乗せた船が着くのは、首都の中心にある広場ではない。海と川の間に位置する港だった。
現在のオスティア遺跡には、船や穀物の計量器具を描いた床モザイクが残っている。
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オスティアの組合広場のモザイク。船と穀物の計量器具が描かれ、サルデーニャ島との交易を示す。 写真・資料:Dennis G. Jarvis / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。
組合広場のモザイクには船、港、運送に関する図像や都市名が刻まれ、商業のネットワークが視覚的に表されている。写真の区画にはサルデーニャ島のカラリス、現在のカリャリの船主たちに関係する表示と、穀物の計量にかかわる図像が残る。
ただし、船がオスティアの岸に直接すべての積み荷を降ろせたわけではない。首都へ向かう物流のため、クラウディウス帝の時代には河口の北側に大規模な港が整備され、トラヤヌス帝の時代にはさらに内港が造られた。大型の商船から小型の船に積み荷を移し、ティベリス川をさかのぼってローマへ運ぶ作業が必要だった。港、運河、河川、倉庫、荷役の人々が連動していたのである。
港に届いた穀物は、倉庫に保管された。

オスティアの穀物倉庫群グランディ・ホレアの遺構。港から運び込まれた物資の貯蔵を支えた。 写真・資料:Lalupa / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。
オスティアの穀物倉庫では、床を地面から少し高くした構造が見られる。通気を確保し、地面からの湿気を避けるための工夫である。海を越えて大量の食料を運べても、湿気や害虫で失ってしまえば、輸送にかけた費用も労働も無駄になる。
袋を担ぐ港の人夫、積み荷を計る人、記録を管理する役人、倉庫を守る人。ローマの食料供給には、商人と国家の双方が関わっていた。穀物の輸送と備蓄を監督する行政組織は、首都の安定にとって大きな意味を持つようになった。オスティア考古学公園の穀物とパンの解説には、倉庫、製粉所、運送業者を示す遺構や資料がまとめられている。
一部のローマ市民には穀物が公的に配給された。その制度は都市の政治と生活を支える重要な仕組みだったが、配給資格や人数には条件があり、首都の全住民が一律に無料でパンを受け取ったわけではない。奴隷や多数の非市民の生活は、そもそも配給対象となる市民の生活とは違っていた。
ローマの食卓は、帝国の地図とつながっていた。そこに並ぶ小麦やオリーブ油は、遠くで耕された畑、船が通った海、人夫が歩いた岸壁を経て届いた。生活に必要なものが手に入る豊かさと、海路が乱れれば不足が生じる危うさは、同じ仕組みの上に成り立っていた。
食事を終えた後、人々が集まった場所の一つに公共浴場がある。
浴場と広場――人々が一緒に過ごした時間
街角の泉や浴場まで水を運んだ水路と、それを維持する仕事については古代ローマの水道で詳しくたどっている。
ローマの浴場は、ただ身体を洗う設備ではなかった。温かい部屋と冷たい水の浴槽、運動する場所、休息のための空間を備えたものがあり、人々は入浴だけでなく会話や交流にも時間を使った。
浴場の規模はさまざまだった。小さな近隣の浴場から大規模な皇帝の浴場まであり、都市の中心ばかりでなく属州の町や軍事基地にも築かれた。首都ローマに残る巨大浴場は壮観だが、すべてのローマ人が毎日そのような施設を利用したわけではない。利用料金や距離、身分、仕事の都合、男女別の利用方法などによって事情は違っていた。
オスティアのネプトゥヌス浴場には、海神が海馬の引く車に乗り、周囲を海の生き物が囲むモザイクが残されている。

オスティアのネプトゥヌス浴場の床モザイク。海神と海の生き物が広い床に描かれる。 写真・資料:Justin Benttinen / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。
この床を見れば、浴場が都市の公共建築としてどれほど大切にされていたかが分かる。湯を張るだけの施設であれば、広い床を美しいモザイクで覆う必要はない。入浴は身体を整え、人と会い、街の生活に参加する時間でもあった。
浴場では、一般に暖かな部屋で身体を温め、より熱い部屋に進み、冷水を使うなど複数の空間が利用された。ただし、建物ごとの構造や使われ方には違いがあり、必ず決まった順序で全員が回ったと考えることはできない。床下や壁の内部に熱を送るハイポコーストと呼ばれる暖房方式は、浴場の設備を支えた古代の技術の一つである。
この便利さを生み出したのが、水道と燃料、そして働く人々だった。
ローマは水道橋や地下水路によって遠くの水源から水を引き、公衆の泉、浴場、一部の住宅などへ供給した。水が豊富に流れ込むことは都市の大きな強みだった。一方で浴場を温めるためには燃料を燃やさなければならず、薪を運び、火を管理する人がいた。水路の建設と修理にも費用や労力が必要だった。
水道があったからといって、古代の都市が現代と同じ衛生環境を持っていたわけではない。人口が密集する場所ではごみや排泄物の処理も難しく、汚れた水や病気にかかわる危険もあった。住んでいる場所と利用できる設備によって、衛生状態は大きく異なった。
オスティアには、石の座席が横一列に並ぶ公共便所の遺構も残っている。
オスティアに残る公共便所の石製座席。現代の個室トイレとは異なる配置だった。 写真・資料:Fubar Obfusco / Wikimedia Commons / Public domain。
座席の配置は現代の個室トイレとはかなり違う。複数の人が同じ部屋を利用するための構造で、下には汚水を流す仕組みが設けられていた。水や下水の扱いには高度な土木技術が使われた一方、プライバシーや衛生についての考え方は現在とは異なっていた。
浴場から街へ戻れば、広場で政治や商売の話が交わされていた。劇場や競技場、宗教の祭りも都市の生活の一部だった。コロッセオの剣闘士や猛獣の見世物は大勢の観客を集めたが、興行には皇帝や主催者の財力と政治的な目的が関わった。観客の娯楽の背後では、見世物に参加させられる人々や動物が犠牲になることもあった。
ローマ人の余暇を考えるとき、仕事を終えた全員が同じ時間に遊んだわけではないことも見えてくる。浴場へ出かける余裕のある人がいる一方、湯を温める仕事や店の営業を続けていた人もいる。街の公共空間は多くの人に開かれていても、その時間を自由に使えるかどうかには大きな差があった。
やがて日が傾き、人々は家へ戻っていく。
夜の街――灯りの向こうに残った人々の暮らし
日が沈んだ都市は、昼とは違う表情を見せた。
街路を照らす現代のような電灯はない。人々は家の灯りや携帯する灯火を頼りにし、夜間の移動には暗さや治安の問題が伴った。都市によって夜の活動の様子は異なるが、照明を得ること自体に油や燃料、器具の費用が必要だった。

ローマ時代のテラコッタ製オイルランプ(紀元前1世紀〜紀元後1世紀)。メトロポリタン美術館所蔵。 写真・資料:The Metropolitan Museum of Art / Wikimedia Commons / CC0。
写真は1世紀前後のローマ世界で使われた陶製オイルランプである。小さな容器に油を入れ、芯を燃やして明かりを取る。今でも形がよく分かるほどの道具だが、この小さな火が照らせる範囲は限られていた。夕方以降に本を読むことも、仕事を続けることも、昼と同じ条件ではできなかった。
部屋に戻ってくる人々の暮らしにも違いがあった。広い屋敷では家族や客のための食事が用意され、家の使用人たちの仕事は続いた。集合住宅では、隣人の物音や、同じ階段を使って出入りする人々の気配が生活の一部だっただろう。台所や水道設備が十分にない家では、外で食事を済ませたり、共同の設備に頼ったりする必要があった。
家族のかたちも一様ではなかった。結婚した夫婦と子ども、親族、奴隷、解放奴隷、住み込みの労働者などが、同じ家の中で異なる関係を結んだ。ローマ法での家長の権限は強かったが、実際の家庭には財産、年齢、地域の習慣などによって違いがあった。
子どもにとっての暮らしも、家庭の財力と身分に左右された。裕福な家では読み書きや文学を学ぶ機会があり、教師が家庭に招かれることもあった。ほかの家庭では子どもが早くから親の仕事を手伝うこともあった。幼くして病気で亡くなる人も多く、墓碑には子どもを失った家族の悲しみが刻まれている。古代の墓は、政治の歴史では名を残さなかった人々が、誰かに大切に思われていたことを伝える資料でもある。
都市の人口は多く、見知らぬ人も大勢いた。それでも家族や同業者、隣人、信仰をともにする人々のつながりが生活を支えた。商業の団体が組織され、葬儀に関わる共同体があり、祭りや宴会で人々が集まった。国家の巨大な仕組みは、こうした小さな人間関係の積み重ねによって動いていた。
首都ローマでは、皇帝の権力も建築も圧倒的だった。水道橋が遠くの水を運び、港には地中海各地から船が入ってきた。その光景を都市の住民がどれほど誇らしく感じたかは、もちろん人によって違っただろう。しかし日々の生活にとってより切実だったのは、今日の仕事、明日の食事、家の安全、家族の健康だったはずだ。
オスティアの集合住宅に戻ってみよう。煉瓦の壁は残るが、窓から見えていた景色も、階段を上り下りした人の声も、もう聞こえない。パン屋の窯は冷え、浴場の水は消えた。石畳の道だけが、その場所を通った大勢の人々の痕跡を今も残している。
ローマ帝国の歴史は、遠征と征服、皇帝の即位と退位だけではできていない。穀物を船から降ろした人、火を守った人、子どもを育てた人、店の売上を数えた人。彼らが毎日を続けたことによって、帝国の都市もまた毎日動いていた。
皇帝たちの政治は五賢帝の84年間で、国家そのものの長い歴史はローマ帝国の通史で詳しく扱っている。また、暮らしと密接に結びついた祭祀や神々についてはローマ人の信仰の歴史でたどることができる。