西暦98年、新しい皇帝トラヤヌスは首都へ急いで戻らず、北方の国境で軍団の支持を確かめていた。皇帝に必要だったのは元老院の承認だけではない。遠くに駐屯する軍隊を味方につける力が、政権の安定を決めた。
96年から180年までの84年間、五人の皇帝が次々に帝国を治めた。後世に五賢帝と呼ばれる時代には、地中海の港に船が集まり、都市に浴場や劇場が築かれた。一方で国境では戦争が続き、奴隷にされた人々が農場で働いていた。皇位の継承から国境の防衛、地方都市の暮らし、戦争と疫病まで、その84年間をたどる。
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マルクス・アウレリウスの古代の騎馬像。 撮影・制作:Merulana / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。表示サイズを縮小。画像は当時の実物・遺跡の現況、または復元地図であり、撮影時点の風景そのものが古代の姿という意味ではない。
皇帝の座をつないだもの
五賢帝は、西暦96年から180年までの五人を指す。彼らがみずから「五賢帝」という一団を名乗ったわけではない。後世の歴史家たちが、比較的安定した継承と帝国の繁栄を一続きの時代として評価してきた呼び方だ。
| 皇帝 | 在位 | その時代を特徴づけること |
|---|---|---|
| ネルウァ | 96〜98年 | 暗殺後の危機を収め、軍に支持されるトラヤヌスを後継者に指名 |
| トラヤヌス | 98〜117年 | ダキア・東方への遠征。帝国の領土がおおむね最大に |
| ハドリアヌス | 117〜138年 | 国境の維持と地方の巡察。ブリタニアで長城を建設 |
| アントニヌス・ピウス | 138〜161年 | 比較的落ち着いた統治。ブリタニアでは前線を北へ進めた |
| マルクス・アウレリウス | 161〜180年 | 共同皇帝、戦争、疫病、ストア哲学、そして実子への継承 |
確かにネルウァはトラヤヌスを養子にし、ハドリアヌスはアントニヌス・ピウスを養子にして、その次の世代まで継承を設計した。
成人した実の男子がいなかった事情、婚姻による家族関係、軍隊の圧力、元老院との駆け引きが絡む。ハドリアヌスが死の直前にトラヤヌスの養子になったとする事情にも、史料上の不確かさがある。
しかも最後のマルクス・アウレリウスは、実の息子コンモドゥスへ帝位をつないだ。後継者の選択には、軍の支持と皇帝家の事情が深く関わっていた。
96年、皇帝ドミティアヌスが宮廷内の陰謀で命を落とした。
96年、皇帝ドミティアヌスが宮廷内の陰謀で殺された。ドミティアヌスは長く統治した皇帝だったが、元老院議員らとの関係が悪化し、処刑や政治的な緊張を重ねていた。
その後、元老院は高齢の政治家ネルウァを皇帝に立てた。彼には政治経験と一定の名望があった。しかし、皇帝として決定的な力が欠けていた。軍隊の圧倒的な支持を確保していなかったのだ。
ローマ帝国は、元老院が皇帝を認めるだけで安定する国ではなかった。軍団を率いる将軍たちや、皇帝の身辺を守る近衛兵が誰に忠誠を誓うかが、政権の生死を左右した。
ネルウァの政権下では近衛兵が反抗し、ドミティアヌス暗殺への報復を要求する。皇帝は自分の意思で武装した兵士たちを完全に抑えられなかった。
ネルウァが後継者に指名したのが、軍で実績のあるトラヤヌスだった。97年のことである。トラヤヌスはライン川方面に軍事的な基盤を持つ指揮官で、帝国の武力を動かせる人物だった。
軍と政治を結び直し、ネルウァ自身の政権を守る選択でもあった。
ネルウァは98年に死去し、トラヤヌスが皇帝となる。二年間の短い治世だったが、彼が切り開いたのは「名君にふさわしい人物が皇位を継げばよい」という理想より、もっと現実的な仕組みだった。
軍を味方につけなければ、皇帝として善政を行うことすら難しい。 五賢帝の時代は、その厳しい現実から始まったのである。
拡大する帝国と守られた国境
国境の砦や行軍、装備、兵士の家族と退役については、ローマ軍団の兵士たちで、実際の墓碑と書簡をもとに詳しくたどっている。
トラヤヌスはイベリア半島の属州に家系の背景を持つ皇帝だった。帝国の支配者がイタリア半島に生まれた名門だけのものではなくなりつつあったことを象徴する人物である。
彼は軍人としての名声を持ち、元老院との関係にも気を配った。だが、何より目立つのは対外遠征だった。
現在のルーマニアを中心とするダキア王国に対し、101〜102年、そして105〜106年に戦争を行い、最終的にはダキアの広い地域を属州に組み込んだ。戦利品や鉱山資源はローマに利益をもたらしたが、征服された側にとっては戦争、支配、生活の激変を意味した。
その勝利を記念して建てられたのが、ローマ市に残るトラヤヌス記念柱だ。

トラヤヌス記念柱の実写真。 撮影・制作:Wknight94 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。表示サイズを縮小。画像は当時の実物・遺跡の現況、または復元地図であり、撮影時点の風景そのものが古代の姿という意味ではない。
柱の表面には、兵士の行進、橋や野営地の建設、戦闘、降伏の場面がらせん状に刻まれている。これはローマ軍が本当にしたことを知るうえで重要な資料である。しかし、皇帝の勝利を示すためにつくられた記念物でもある。征服された人々の苦痛は、皇帝の勝利を称える彫刻の中では目立たない。
トラヤヌスの事業は戦争だけではなかった。首都では壮大なフォルムや公共建築が整備され、地方都市の生活を支える道路、施設、行政にも力が注がれた。困窮した子どもへの給付と結びつくアリメンタ制度も、彼の時代の政策として知られる。ただし、その対象や規模、制度の起源には研究上の議論がある。
帝国を支えるため、皇帝が首都や属州の人々に目に見える利益を与えることは重要だった。記念柱が語るのは勝利だが、帝国の日常を動かしたのは行政官、地方の有力者、納税者、兵士たちの仕事でもある。
117年――地図は最大になったが、帝国は安定したのか
トラヤヌスはさらに東方へ遠征し、アルメニアやメソポタミア方面でパルティアとの戦争を進めた。ローマ軍はクテシフォンにも到達した。しかし、反乱や補給、遠く離れた地域の統治は容易ではなかった。
117年、トラヤヌスは死去する。このころの帝国の領域を示した地図は、しばしばローマ帝国の最大版図として紹介される。

西暦117年の帝国版図を現代に復元した歴史地図。赤色がローマの支配地。 撮影・制作:Tataryn / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。表示サイズを縮小。画像は当時の実物・遺跡の現況、または復元地図であり、撮影時点の風景そのものが古代の姿という意味ではない。
トラヤヌスは版図を最大に広げたが、東方で得た土地を長く維持することは難しかった。
征服地には兵士を置き、行政官を派遣し、現地の勢力と交渉し、戦争に備えなければならない。補給路は延び、反乱への対処は遠くなる。東方の新しい領土の一部は、次の皇帝のもとで維持が断念された。
トラヤヌスの死は、ローマ帝国がどこまでも拡大できるわけではないことを突きつけた。その後継者は、帝国の強さを違う形で示そうとする。
トラヤヌスの死後、帝国の拡大から国境の維持へ政策の重点が変わった。
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ハドリアヌス時代に再建されたパンテオン。撮影・出典:Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。
117年に皇帝となったハドリアヌスは、トラヤヌスの東方での拡張路線を基本的に引き継がなかった。メソポタミアなどの新しい領土の一部から手を引き、帝国の統治基盤と国境を固める方向へ進んだ。
広い帝国を守るには、限られた軍事力をどこへ置くかを決めなければならなかった。
ハドリアヌスは長い巡察旅行を行い、さまざまな属州を訪れた。皇帝自身が地方の軍隊や都市を見て回ることは、遠く離れた住民にとって統治者の存在を実感する機会でもあり、地方の行政に緊張を与えるものでもあった。
彼の政策を最も視覚的に伝えるのは、イギリス北部に残るハドリアヌスの長城だ。
ハドリアヌスの長城に接するハウスステッズ砦の穀物倉跡。 撮影・制作:Mark A. Wilson / Wikimedia Commons / Public domain。表示サイズを縮小。画像は当時の実物・遺跡の現況、または復元地図であり、撮影時点の風景そのものが古代の姿という意味ではない。
122年ごろに建設が始まった長城は、ブリタニア北部を横断する約117キロメートルの防衛・管理施設だった。壁の周囲には砦、見張り塔、通行のための門などが配置された。現在の遺跡を見ても、壁は砦や門を備え、人の移動を管理するための国境施設でもあった。
駐屯兵は通過する人や物を管理し、道路を守り、地域の軍事的な動きを監視した。国境を壁一本の線として描きがちだが、実際には兵士、交易、家族、集落が関わる広い地帯だった。ローマ軍には帝国内のさまざまな地域の人々が所属しており、辺境の砦もまた多文化的な社会だった。
English Heritageの考古学的な解説を読むと、長城の建築計画自体が途中で変更され、材料や構造も区間によって異なったことが分かる。ローマの国境施設は、最初から完成した一枚岩の計画だったわけではない。
ハドリアヌスは文化や建築に深い関心を示した皇帝でもある。ギリシャ文化に親しみ、各地の都市と関わり、ローマには大規模な建築が残された。パンテオンの現存する主要部分も、彼の治世の再建に由来する。
一方、132〜135年ごろ、ユダヤ地方ではバル・コクバの反乱が起きた。ローマ側は激しい軍事的な力でこれを鎮圧した。多数の死者や住民の移動を伴ったと考えられ、後世のユダヤ史に深い影響を残した。
反乱に至る背景や皇帝側の政策については、史料解釈に議論がある。ハドリアヌスの治世にはユダヤ地方で大規模な反乱と激しい戦争も起きた。帝国の安定を守ることが、支配される側には暴力を意味する場合があった。
もう一つ、皇帝の人間的な面が見える話がある。彼に近かった青年アンティノウスが130年にエジプトで亡くなると、皇帝は彼を記念する都市の建設や崇敬に関わった。アンティノウスの姿を刻んだ貨幣も残り、帝国各地の宗教文化と皇帝個人の感情がつながっていたことを示している。大英博物館にはアンティノウスを表した属州貨幣が収蔵されている。
ハドリアヌスは138年に死去した。彼の最後の大きな仕事の一つが、次の皇帝だけでなく、その次の世代までを見据えた後継者の選定だった。
繁栄した都市と人々の暮らし
帝国の農場や都市を支えた奴隷制度、解放後の生活と身分の問題は、ローマ帝国の奴隷たちで、実際の遺跡と碑文から詳しくたどっている。
五賢帝の五人のうち、アントニヌス・ピウスは、最も名前を覚えにくい人物かもしれない。大きな征服戦争で有名になったわけでもなく、自分の著作で現代まで読まれているわけでもない。
しかし、彼の在位は23年に及ぶ。138年から161年まで、帝国の中央政治に比較的長い安定が続いたことは重要だ。
アントニヌス・ピウスは、ハドリアヌスに養子として選ばれた。しかも、彼自身が若いマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスにつながる後継者の養子縁組を行うことが、継承計画の一部となっていた。
皇帝の死後の混乱を避けるために、次の世代まで後継者を準備する方法が取られた。
彼は元老院と協調的な関係を保ち、帝国の行政を継続した。しかし、皇帝の仕事には平凡に見えることも含まれる。属州総督の任命、財政、都市の訴え、司法上の判断、軍隊の管理。絶え間ない征服戦争より、こうした活動こそ巨大帝国の持続を支えていた。
ただし、アントニヌスの治世にも戦争や国境の問題はあった。ブリタニアではローマ軍がハドリアヌスの長城より北へ進み、142年ごろからアントニヌスの長城を構築した。今日のスコットランドを横切るこの防衛線は、後に維持が難しくなり、ローマ軍は再び南の防衛線を重視することになる。
国境の政策は皇帝ごとに変わり、状況によって再び見直された。
大英博物館には、ブリタニアを表したアントニヌス・ピウスの硬貨が残る。皇帝自身がブリタニアへ行かずとも、遠い土地での権威や軍事的な成功を、貨幣という身近な媒体を通じて帝国全土へ知らせることができた。
民衆が生活を続け、税が集まり、軍が訓練をし、都市が建て直される日々が続くことは、国家にとって小さな成果ではない。
だからこそ、何も起きていないように見える23年間を、帝国の繁栄が最も鮮明に表れた時代の一つとして読めるのである。
宮廷の外では、人々の暮らしと交易が帝国を支えていた。

五賢帝の時代にも使われていたコロッセオ。撮影・出典:Wikimedia Commons / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。
ここまで五人のうち四人を見てきた。だが、皇帝の判断だけでは帝国は動かない。各地の都市に暮らす人々と、それを結ぶ物流の仕組みが必要だった。
イタリア、ヒスパニア、ガリア、北アフリカ、ギリシャ、エジプト、シリア。各地の生産品が道路、川、船で運ばれ、港へ集まった。スペインなどからオリーブ油が届き、北アフリカやエジプトの穀物は大都市を支えた。
貨幣の流通も、離れた市場での取引を容易にした。ただし、帝国のどこでも同じ豊かさがあったわけではない。地域ごとに経済の姿は異なり、農村では物々交換や地元の慣習も重要だった。
公共浴場、神殿、劇場、フォルム、水道橋。こうした施設の多くは、多くの都市施設は地方の有力者や自治組織の資金、地域の人々の労働によって整備された。
地方の有力者には、皇帝や都市への忠誠を示すことで、権威と名声を得る理由があった。銘文には、ある人物が公共施設の建築に資金を出したという誇らしげな記録が残る。こうした人々は地域の公共生活を支える一方、地位や富を持たない住民との間に大きな格差を保っていた。
メトロポリタン美術館のローマ帝国史の概説は、地方出身の皇帝、元老院議員、軍人の増加や、属州の富裕層による都市への投資を、この時代の重要な特徴としている。
皇帝の出身地そのものも変わりつつあった。イタリアだけが国家の中心ではなくなり、属州出身の有力者が帝国政治に参加する。ローマ帝国の強さは、ローマ以外の人々を国家の支え手に変えられたことにもあった。
都市を支えた住民の身分や言葉は土地によって異なっていた。
五賢帝期の帝国には、多くの言語や文化を持つ人々が暮らしていた。西方ではラテン語が行政や都市文化の重要な言語となり、東方ではギリシャ語が広く使われた。地域の言語や信仰がすべて消えたわけではない。
ローマの支配を受ける人々が一律に同じ法的地位を持っていたわけでもない。ローマ市民権を持つ人、持たない自由民、奴隷にされた人。その区別は法律や身分に大きく関わっていた。
ローマ市民権は少しずつ広がった。軍での勤務を通じて資格を得る者もいれば、地方の都市や家門を通じてローマの政治的な仕組みに取り込まれる人々もいた。ただし、帝国のほとんどの自由民に市民権を広げる212年の命令は五賢帝の時代より後のことである。
属州の人々がローマの国家へ参加できたことは、帝国の求心力を高めた。それでも、すべての人が平等になったわけではなかった。
奴隷は農業、家内労働、商業、工房、鉱山など多くの場所で使われた。解放されて自由民となる者もいたが、自由を奪われ、売買の対象とされる生活は帝国の繁栄の裏側にあった。
女性たちにも社会的・法的な制約があり、政治的な公職への参加は認められなかった。財産を所有し、事業に関わる女性もいたが、その可能性は家族や身分によって大きく異なった。
大理石の彫像が残る都市の周囲では奴隷にされた人々が働いていた。ダキア戦争やユダヤ地方の反乱を経験した人々の暮らしは、皇帝の記念碑とは異なる姿をしていた。
五賢帝の統治がもたらした恩恵と負担は、身分や住んでいた土地によって異なっていた。
宗教にもそれぞれの都市の伝統が残っていた。
ローマには、ユピテルやマルスをはじめとする国家の神々、家を守る神々、都市ごとの守護神、東方の信仰など多様な宗教があった。宗教は私的な心の問題にとどまらず、公の儀礼、祭典、都市の秩序と結びついていた。
皇帝自身やその家族に神聖な権威が与えられることもあった。皇帝崇拝は地域ごとに異なる政治と宗教の儀礼として行われた。
その時代、キリスト教も帝国の各地へ広がっていた。トラヤヌス期には、属州総督プリニウスがキリスト教徒をどう扱うべきか皇帝に相談した往復書簡が知られる。宗教的な拒否や忠誠の問題は、帝国が住民の多様性をどう扱うかという政治問題でもあった。
社会の秩序を乱すと見なされた宗教的行動に対しては、厳しい措置が取られることもあった。
同時に、帝国には高度な哲学文化もあった。ストア派の思想は、何が人間の善であり、何が自分の力の及ばない出来事なのかを考える。さまざまな学派がギリシャ語の世界を中心に学ばれ、皇帝の教育にも影響を与えた。
その思想に深く関わった皇帝が、五人の最後を飾るマルクス・アウレリウスだった。
哲学者の皇帝と戦争・疫病
161年、アントニヌス・ピウスが死去し、マルクス・アウレリウスが皇帝となった。彼は若いころから高度な教育を受け、哲学への関心を深めていた。現代まで読まれる『自省録』で知られる。
けれど、彼が哲学を重んじていたからといって、帝国の政治が平穏に進むわけではなかった。
即位すると、マルクスはルキウス・ウェルスとともに皇帝としての権限を分け合った。二人が正式に共同皇帝となったことは、ローマ帝国の継承史で重要な節目である。
ルキウス・ウェルスは161年から169年まで共同皇帝を務めた。後世の五賢帝という呼び名からは、その役割が見えにくい。
東方ではパルティアとの戦争が起き、ルキウス・ウェルスが東方の軍事行動に関わった。ローマ軍は遠征で勝利を得たが、帰還する軍や帝国内の移動をめぐって、そのころ広がった疫病との関係が語られてきた。
その後、ドナウ川方面でも国境の緊張が高まり、マルクス・アウレリウスは多くの時間を北方の軍事問題に費やした。政治家としての彼の仕事は、書物を読むことだけでなく、軍隊を動かし、兵糧と財源を確保し、戦争の判断を下すことだった。
哲学者が皇帝になっても、戦争を避けられるとは限らない。むしろそのことが、彼の書き残した文章を独特なものにしている。
『自省録』は、国民向けの立派な演説ではなかった
マルクス・アウレリウスの『自省録』には、怒り、不安、他人との関係、死をどう考えるかについて、自分を戒めるような文章が並んでいる。
研究者の多くは、自分の判断を立て直し、ストア派の考えを実践するための私的な覚え書きとして捉えている。
スタンフォード哲学百科事典は、彼の思想について、徳と判断に重きを置くストア派の立場を説明しながら、本人がその理想を実行することの難しさにも注目している。
皇帝は絶大な権限を持っていた。だが、自分の身体、病気、周囲の人間の感情、戦争の行く末を、思いどおりに支配できるわけではなかった。自分の心をどう使うかを繰り返し確認する文章が、帝国の支配者によって書かれたという事実には奇妙な重みがある。
思想と現実の政策は、切り離さずに、しかし混同せずに見る必要がある。
北方の戦争と同じころ、帝国を疫病が襲った。
マルクス・アウレリウスの治世を理解するうえで、戦争と並んで重要なのが、160年代半ばから広がった大規模な疫病である。一般にアントニヌスの疫病と呼ばれる。
当時の医師ガレノスの記述や複数の史料に、広範囲で病気が流行したことを示す情報が残る。各地で人が移動し、軍隊や都市、交易路がつながっていた帝国は、病原体が広がる経路にもなりえた。
ガレノスらが残した症状の記録から天然痘を推定する議論はある一方、現代の医学的な診断を確定させることは難しい。『Journal of Roman Archaeology』掲載の研究は、古代の症状記述だけで現代の病原体を特定する危うさを検討している。疫病の広がりや犠牲者の規模についても、正確な数値を出すことは難しい。
一方、ケンブリッジ大学出版局の研究では、感染症が広大な帝国で広がったことと、それが社会の多くの部分に影響した可能性が論じられている。
疫病による被害を受けた後も、帝国は何世紀も続いた。戦争、財政、人口、物流、宗教的な対応などの要因が複雑に作用したと考えるほうがよい。
だが、帝国の繁栄を支えた広い道路網や海上交易は、病気の伝播を助ける可能性もあった。帝国の強みと弱みが、同じ仕組みの別の顔として現れたのである。
戦争と病の中でも、行政と農村の生産は続いていた。
疫病が広がっても、国境の警備をやめることはできない。軍団には補給が必要で、各地の都市は行政を続け、農民は畑を耕し、商人は商品を運んだ。
五賢帝の統治が続いた背景に、帝国の大きな制度的な基盤があることを忘れてはならない。
街道や港湾のネットワークは、遠く離れた地域同士の経済をつないだ。軍団と補助軍の兵士たちは国境を警備し、必要に応じて他の場所へ移動する。都市の有力者は公共建築を支え、地方の行政を担った。
しかし、これらの仕組みは高い費用を必要とした。軍隊を維持するには税が必要で、税を集めるには安定した生産と行政が必要だった。疫病や戦争が長引けば、財政は苦しくなりうる。
古代の経済の姿は、貨幣、建築、船の積荷、碑文やパピルス文書などから推定されている。こうした資料の地道な積み重ねによって、歴史家は皇帝の行動だけでは分からない帝国の姿を描いている。
帝国の繁栄は各地の人々が働き、商い、税を納めて成り立っていた。
黄金時代の終わり
五賢帝の歴史で、最もよく語られる結末がある。
マルクス・アウレリウスの息子コンモドゥスは161年に生まれ、177年には父とともに皇帝の地位を持った。180年、父の死によって単独の皇帝となる。後世に黄金時代の終点とされた継承は、父の生前から準備されていた。
ここまでの皇帝たちは、自分に成人した男子の後継者がいなかった事情などから、養子や婚姻を使って継承を整えてきた。養子縁組も血縁と婚姻の政治の一部だった。
マルクスから見れば、実の息子を後継者にすることには権力争いを防ぐ意味もあったのだろう。ただし、彼の内心を明確に証明する史料はないため、動機は推測として扱わなければならない。
コンモドゥスは北方での戦争を終わらせる方向へ動く一方、後年には宮廷の混乱や、自身の権威を誇示する政治を強めたと伝えられる。そして192年、コンモドゥスは暗殺された。
コンモドゥスの即位後も帝国の行政、都市、軍は存続し、次の世紀にも大きな政治改革や領土回復が起きた。ローマ帝国の通史でも見たとおり、西側の皇帝政権の終わりは476年、東側の国家の最後は1453年だ。
コンモドゥス個人の統治が問題を生んだことと、五賢帝期の制度や社会が抱えていた限界は分けて考えなければならない。
皇帝の評価を考えるには、彫像や貨幣、歴史書の読み方も重要になる。
五賢帝という名称には、後世の歴史家が帝国政治を評価した視点が反映されている。
しかし、帝国の評価を伝える史料の多くは、ローマの支配層に属する人々によって書かれた。元老院議員や文人たちは、自分たちの権限を尊重した皇帝を高く評価し、対立した皇帝を厳しく描く場合がある。
ドミティアヌスが暗殺された後、彼への批判が激しくなったことも、後の皇帝たちの評価を読む際には無視できない。新たな皇帝が前任者より優れているという物語は、政治的にも意味を持った。
トラヤヌスの勝利を記念する柱、皇帝の徳を刻んだ貨幣、都市に建てられた彫像は貴重な資料だ。しかし、すべて皇帝の権威を示すためにも使われたものだ。そこで誇らしげに描かれた「平和」は、ローマの支配が及ぶ地域のすべての住民にとって同じ意味ではなかった。
現代の研究者は、歴史家の著作だけでなく、碑文、貨幣、考古学的な遺構や日用品、属州の資料などを合わせて評価を試みる。
例えば、アントニヌス・ピウス期とマルクス・アウレリウス期は、前者が安定、後者が危機という鮮やかな対比で語られる。しかしケンブリッジ大学出版局のローマ市の考古学的な研究では、都市に残る物証からは、その対比が必ずしもはっきり読み取れないことが指摘されている。
五賢帝期の黄金時代という呼称には、政治の安定と都市の繁栄に注目した後世の歴史家たちの視点が反映されている。
養子縁組による継承も、後世の人々に理想化された。
養子による継承は後世に理想の制度として語られたが、実際には家族関係と軍の支持が深く関わっていた。
ネルウァは軍の圧力のなかでトラヤヌスを選んだ。トラヤヌスからハドリアヌスへの継承には史料上の不確実性がある。ハドリアヌスは次の世代までの養子縁組を条件としてアントニヌス・ピウスを選んだ。そしてマルクス・アウレリウスは実子コンモドゥスに継がせた。
この流れを見れば、五人が同じ継承ルールに従ったというより、それぞれの皇帝が異なる政治的な問題に対処した結果が、一続きになったと考えるほうが実態に近い。
後継者をあらかじめ指名し、皇帝として必要な経験や関係を整えておくことは、権力の空白を減らす助けになっただろう。だが、単独の制度が長期安定を自動的に保証したわけではない。
五賢帝の時代を生んだのは、皇帝個人、軍の支持、元老院、都市、地域社会、税制、交易、偶然の事情が重なった歴史だった。
それでも長い安定が続いた時代としての評価には根拠がある。
96年から180年の間には、大きな領土を維持し、地方都市が繁栄し、政治的な継承を比較的安定して進められた時期があった。トラヤヌスの征服、ハドリアヌスの国境整備、アントニヌス・ピウスの長期統治は、性格が違いながら帝国の継続に関わっている。マルクス・アウレリウスの治世に戦争や疫病が重なっても、国家がただちに解体したわけではない。
戦争や支配に苦しむ人々がいる一方で、帝国を維持する制度が機能し、政治と経済の連続性が保たれたということだ。
記念柱に刻まれた皇帝の勝利。北の国境に延びる石の壁。地方都市に建つ浴場。そして、戦場で自分の心を戒めた皇帝の言葉。
それぞれを見ると、五賢帝の時代は別の顔を見せる。
黄金時代という呼び名には、政治の安定と都市の繁栄を後世から評価した人々の価値観が刻まれている。
96年、ネルウァは軍に支えられた後継者を必要としていた。180年、マルクス・アウレリウスのあとには実の息子が残った。その間に帝国は大きく広がり、国境を固め、豊かな都市を育て、戦争と疫病にも遭遇した。
国境の長城、都市の水道橋、貨幣や墓碑、戦争の記録には、皇帝の名前だけでは語れない人々の暮らしが残っている。