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ローマ帝国の奴隷たち――豪華な都市と邸宅を支えた人々の人生

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更新日:2026-10-31

西暦79年、ヴェスヴィオ火山から降り積もった火山灰は、ポンペイの豪華な家だけでなく、その家々で働く人々の暮らしも埋めた。街の外れにあるシヴィタ・ジュリアーナの別荘では、近年の発掘によって三台の寝台を置いた小部屋が見つかっている。

寝台は木と縄で作られていた。うち一台はほかの二台より短く、部屋には壺や木箱、馬具の部品、車の仕事に使われたとみられる道具が残っていた。装飾のない狭い空間は寝室と物置を兼ね、そこに暮らした人々が主人の家の仕事を担っていたことをうかがわせる。考古学者たちは奴隷にされた人々の居住区と考えているが、三台の寝台が親子のものだったのか、住人がどんな関係だったのかは確定していない。

この小さな部屋にあった人々の名前は分からない。発掘を伝えるポンペイ考古学公園の記録には写真と調査報告が残る。二千年前の住居を目にできるのは、火山の噴火という災害が木や布の痕跡を保存したためである。

ローマ帝国の歴史を伝える文章は、皇帝や軍団、都市の壮麗な建築物に多くの紙幅を使ってきた。だが、その建物を掃除し、畑を耕し、食べ物を作り、子どもを育てた人々のなかには、法律によってほかの人間の所有物とされた者が大勢いた。

ローマの奴隷制は何世紀も続き、その経験は土地と時代によって大きく異なっていた。ポンペイの小部屋から、誰が奴隷となり、どこで働き、家族や自由をどう求めたのかをたどっていこう。

古代ポンペイの裕福な邸宅で実用的な部屋が集まる中庭

ポンペイのヴェッティの家にある裏側の中庭。台所などの実用的な部屋へつながっていた。シヴィタ・ジュリアーナの発掘部屋とは別の遺構である。 写真:Jamie Heath / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。

人が財産となった社会

紀元前2世紀のローマは、地中海を渡る戦争を繰り返していた。カルタゴやマケドニアの勢力との戦い、ギリシャ諸都市への進出、イベリア半島での征服。戦場で捕らえられた人々は故郷から引き離され、市場で売られることがあった。戦争の勝利を刻む記念碑の外側に、捕虜として連れ去られた家族の人生があった。

奴隷になった人は民族や肌の色で一律に分けられていたわけではない。ガリア、ギリシャ、小アジア、アフリカ、イタリアなど、出身地はさまざまだった。戦争捕虜のほか、奴隷にされた母親から生まれた子ども、誘拐や人身売買などによって奴隷にされた人々もいた。帝国の勢力が安定すると、出産や交易を通じた供給の意味も変わっていった。

ローマ法では奴隷は主人の財産とされ、売買や相続の対象となった。自分の住む場所や働く場所を決める権利も、家族とともに暮らし続ける権利も保証されていなかった。法学者たちは人間としての奴隷について論じることもあったが、社会の根本には所有者が他人の労働と身体を支配できる制度があった。

ローマ時代に使われた奴隷の鉄製拘束具

英国ハンプシャー州ヘッドボーン・ワージーで見つかったローマ時代の拘束具。 写真:Portable Antiquities Scheme / Wikimedia Commons / CC BY 2.0。

英国で出土したこの拘束具は、逃亡を防ぎ、人を物理的に支配するための道具が存在したことを伝える。ただし、ローマで奴隷だった人が全員これを身につけていたということではない。農場や鉱山、家、工房では仕事と管理の形が異なり、日常的な拘束の程度も違っていた。

当時、奴隷の人数はどれほどだったのだろう。正確に数えることはできない。帝国全体に現代の国勢調査のような連続した統計はなく、時代と地域によって奴隷人口の比率が大きく異なったためである。イタリアの都市や大農場では広く使われていた一方、帝国のどの村にも同じ割合でいたと推測する根拠はない。推計の数字は研究者の人口モデルや史料の解釈に左右される。

一人の人間が売買されるということは、その人の仕事だけでなく、名前や人間関係、将来の可能性まで主人の決定に左右されることを意味した。ある地域で生まれた子どもが、遠いイタリアの都市に連れてこられる。言葉の異なる家で働き、周囲の習慣を覚え、そこが長い人生の舞台になる。奴隷制は人を移動させ、帝国の社会そのものを形づくっていた。

ローマ時代の採石場へ通じる古道の遺構

エジプト東部砂漠の古代ローマ石切り場へ通じる道。古代の採石業を伝える遺構。 写真:Panegyrics of Granovetter / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。

エジプト東部砂漠のモンス・クラウディアヌスでは、ローマの建築に使う石が切り出された。荒れた山中の石材を都市まで運ぶには、採石、運搬、食料の供給、道路の維持など多くの仕事が必要だった。こうした遠隔地の労働には、奴隷、囚人、兵士、賃金労働者など複数の立場の人々が関わり、そこで働いた全員が奴隷だったわけではない。

台所、工房、農場――帝国を支えた仕事

ポンペイの裕福な邸宅に戻ると、客に見せる華やかな部屋と、仕事に使われた空間の違いが目に入る。壁画のある客間、来客を迎える中庭、家の奥にある台所や物置。主人の食事を用意するには、食材を仕入れ、火を起こし、水を汲み、皿を洗う人が必要だった。

ポンペイのヴェッティの家の装飾されたアトリウム

ポンペイのヴェッティの家の装飾された中庭。作業の場所との違いが見える。 写真:Mary Harrsch / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。

ヴェッティの家は、その富を色鮮やかな壁画で示していた。家の所有者とされるアウルス・ウェッティウス・コンウィウァとアウルス・ウェッティウス・レスティトゥトゥスは、解放奴隷から富を得た人物と考えられている。かつて奴隷だった人物が豪華な家を持ち、そこに別の奴隷にされた人々が働いていた可能性もある。身分の変化と他人を支配する権力が、一つの家の中で重なっていた。

家事は単純な仕事の集まりではなかった。布の手入れ、子どもの養育、食事の管理、客の接待、財産の記録、装飾の手入れに、それぞれ経験や技能が必要だった。裕福な家庭には読み書きのできる奴隷や教育を担当する教師、医療に関わる者がいた一方、危険で重い労働を担った人もいた。主人と同じ家に住んでいたことが、対等な人間関係を意味したわけではない。

ポンペイ考古学公園は、ヴェッティの家に残るエウテュキスという女性の痕跡を紹介している。落書きには、奴隷にされた彼女が客に性的なサービスを提供していたことを示す文字があり、性暴力や性的搾取も制度の一部だったことを伝えている。女性や子どもは性的な強制にさらされることがあり、主人の権力から逃れる手段は限られていた。

都市の工房にも奴隷は働いていた。パン屋では石臼を動かし、粉を扱い、窯の熱に向き合う。布を洗う工房では水槽に立ち、衣服を踏み洗いした。多くの人が買うパンや布は、店頭に並ぶ前に長い労働の工程を経ていた。

ポンペイに残るパン屋の石臼と焼き窯

ポンペイのパン屋に残る石臼と窯。穀物をひき、パンを焼く作業の場所。 写真:Isaac Harjo / ProWalk Tours / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。

もちろん、パン屋や工房にいた人が全員奴隷だったわけではない。自由民、解放奴隷、奴隷にされた人々が同じ仕事場で働くこともあった。作業場の遺構だけから働き手の法的身分を判断できない場合も多く、古代の生活史を研究する際の難しさの一つとなっている。

地中海の農村では、広い農地を管理するために奴隷の労働が使われた。ブドウやオリーブの栽培、穀物の生産、家畜の世話、収穫物の加工。主人自身が遠くの都市で生活し、現地の監督者に農場の経営を任せる例もあった。大農場における奴隷の働き方は農業書にも記されているが、その多くは主人がどのように仕事をさせるべきかを説いた文章であり、働く側の気持ちはほとんど残されていない。

北アフリカのドゥッガで出土したモザイクには、酒を運ぶ人物たちが描かれている。

ドゥッガ出土の古代ローマの給仕を描いたモザイク

北アフリカのドゥッガから出土した給仕のモザイク。小さく描かれた人々が酒を運ぶ。バルドー博物館所蔵。 写真:Pascal Radigue(Habib.mhenniによる補正) / Wikimedia Commons / CC BY 3.0。

客に飲み物を差し出す人々は、飲む側よりも小さく描かれている。古代の美術は、そこに暮らす人の姿を記録すると同時に、誰を大きく、誰を小さく表すかによって社会的な序列を示すことがあった。この図像では給仕する人物が奴隷として表現されていると解釈されているが、描かれた場面そのものが特定の個人の日常をそのまま写した写真というわけではない。

帝国の都市を食べさせ、邸宅を維持し、工房を動かす仕事は、さまざまな身分の人々によって担われた。奴隷制はその労働の重要な部分を占め、ローマの富と消費を支える仕組みの中に深く入り込んでいた。

家族、逃亡、反乱――奪われなかったもの

シヴィタ・ジュリアーナの小部屋には、三台の寝台が置かれていた。一台は小さく、子どもが使った可能性がある。そこに親子が暮らしていたとすれば、家族の時間は仕事道具のすぐ隣にあったことになる。ただし遺物だけでは寝台の主が誰だったか、どのような関係だったかは分からない。

ローマ法では、奴隷にされた人々は自由民と同じ意味での合法的な婚姻を結べなかった。ともに暮らす男女の関係はコントゥベルニウムと呼ばれ、夫婦に似た共同生活でありながら、法的な結婚とは区別された。子どもは母親の所有者の財産とされ、家族が別々の主人のもとへ売られることもあった。

それでも、墓碑には伴侶や子どもへの愛情を記した例が残る。奴隷や解放奴隷だった人々の碑文には、夫や妻という言葉を使うものもある。法的な扱いがどうであっても、人々はともに暮らし、誰かを亡くして悲しみ、その関係を石に残そうとした。家族を持つという日常的な願いさえ、主人に左右される不安と隣り合わせだった。

奴隷にされた人々の抵抗も、必ずしも戦争の形を取ったわけではない。仕事を怠る、命令を避ける、逃げる、家族のために物を残す。そうした行動の記録は乏しいが、主人たちの法律や罰則の記述からは、支配が常に従順さによって支えられていたわけではないことが分かる。

逃亡を防ぐための拘束具や、所有者へ連れ戻すよう求める銘文も出土している。

逃亡した奴隷を持ち主へ戻すよう求めた古代ローマの青銅製首輪

4〜5世紀に用いられた銘文付きの首輪。逃亡した人を主人ゾニヌスのもとへ戻すよう求め、謝礼が記されている。国立ローマ博物館所蔵。 写真:Mark Landon / Wikimedia Commons / CC BY 4.0。

写真の首輪は4〜5世紀の遺物で、初期帝政よりも後の時代のものである。首輪には逃亡した奴隷を主人ゾニヌスへ戻せば金貨を与えるという趣旨の銘文がある。人物の名前は残らず、主人の名前と返還の要求だけが残った。人間を所有物として扱う制度が、古代ローマの長い歴史の中で続いたことを伝える資料である。

紀元前73年、カプアの剣闘士養成所から集団が脱走し、ローマを揺るがす反乱へ発展した。指導者として知られるのがスパルタクスだった。彼らは南イタリアで戦いを続け、参加者は奴隷だけでなく、さまざまな境遇の貧しい人々にも広がった。

古代ローマの剣闘士を描いたズリテンのモザイク

ローマ近郊で見つかったボルゲーゼの剣闘士モザイク。網闘士と追撃闘士の戦いを描く。4世紀ごろ。 写真・出典:古代ローマのモザイク / Wikimedia Commons / Public domain。

このモザイクは反乱から数百年後のもので、スパルタクスの戦いを描いた資料ではない。剣闘士の対戦がどのように描かれ、観客へ見せられたのかを伝えている。スパルタクスはそうした興行のために戦うことを強いられた人々の一人だった。

反乱の軍勢は数万人規模へ膨らんだと古代の歴史家たちは記しているが、人数の推計は記録によって幅がある。反乱軍は各地でローマ軍を破ったものの、紀元前71年にクラッススの軍勢に敗れた。スパルタクス自身も戦死したと伝わる。生き残った捕虜の多くが処刑され、アッピア街道沿いに多数が磔刑にされたことを古代の著述家は記している。詳しい経過はプルタルコスとアッピアノスの記述からたどることができる。

スパルタクスの軍がローマの奴隷制全体を廃止しようとしていたかどうかは、残された史料から確定できない。反乱の目的は参加した人々によっても違っただろう。彼らが軍として戦い、自分たちの進路を選ぼうとしたことは、支配に抵抗する大きな行動として記録された。

小さな部屋に残った寝台と、大軍となった反乱の記録。その間には、多くの人のごく日常的な願いがあった。愛する人と暮らすこと、命令から逃れること、明日を自分で決めること。だが、実際に自由を手に入れた人々の道のりも、一様ではなかった。

解放されても続いた関係

ローマ社会には、主人が奴隷を解放する制度があった。**解放(マヌミッシオ)**は遺言、正式な儀式、そのほかの方法で行われた。奴隷にされた人が、管理を許された財産を蓄え、自分の解放のために支払う場合もあった。

解放を待ち望む人がいた一方、その機会がまったくないまま生涯を終える人々もいた。農場や鉱山で働いた人と、主人の家で技能や事務を担当した人とでは、所有者との関係も異なっていた。解放の可能性をすべての奴隷の共通の将来として考えることはできない。

ローマ市民の主人から正式に解放された人は、市民権を得られる場合が多かった。ただしアウグストゥスの時代には解放の人数や年齢などを規制する法律が整えられ、解放の方法によって法的な地位に差が生じた。市民権を持つ解放奴隷でも、自由民の出生者と同じ政治的な資格をすべて持つわけではなかった。元の主人との間にはパトロヌスと解放奴隷の関係が続き、一定の奉仕などの義務が残ることもあった。

解放を受けた人の仕事は多様だった。職人、商人、助産師、家政の管理人、教師、書記。主人の仕事を受け継ぐ人も、自分で事業を営む人もいた。皇帝家の解放奴隷が行政の中で重要な役割を持つこともあった。だが富を得た一部の人々は、解放された人全体の生活を代表していない。

紀元前1世紀末に作られた石の浮彫には、二人の解放奴隷が並んでいる。プブリウス・リキニウス・フィロニクスとプブリウス・リキニウス・デメトリウスである。作品には二人の肖像に加え、解放儀礼に関わる道具や職人の仕事道具が刻まれた。

自らの解放と職業を墓碑に残した二人のローマ人の肖像

解放奴隷だったプブリウス・リキニウス・フィロニクスとデメトリウスの肖像浮彫。解放儀礼の道具や職人の道具が刻まれている。 写真:Mike Peel / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。

二人は生前に自由を得たことと、仕事によって社会の中に場所を持ったことを、後世に伝えようとした。亡くなった人の姿を石に刻むという行為には費用が必要であり、同じ身分から解放されたすべての人がこうした墓碑を持てたわけではない。残された石の美しさは、記録を残すだけの資力を得られた人々に歴史の光が当たりやすいことも示している。

解放された人々の女性としての経験にも独特の難しさがあった。元の主人との結婚を条件に自由になる例があり、法的には自由民になっても婚姻や財産の扱いに強い不均衡が残る場合があった。解放を経た女性の生活がどのようなものだったかは、墓碑、婚姻の記録、法律の研究から少しずつ明らかになっている。Katharine Huemoellerの研究(2020)は、結婚のための解放に伴う権利と制限を分析している。

解放奴隷たちの家族には、次の世代への希望もあった。出生時から自由人である子どもには、親が奴隷出身だったことによる法的な差が縮まる場合があり、教育や職業を通して地位を高められる可能性が生まれた。ただし元の身分への偏見は残り、財産や人脈による格差も続いた。

所有される側から解放される側へと変わっても、その人の人生は過去から完全に切り離されたわけではない。主人の家で覚えた技能が仕事の基盤になることも、元の主人の権力が自由の範囲を狭めることもあった。

墓碑に名前を残した人々

紀元前30年ごろ、ローマのアッピア街道沿いに夫婦の墓碑が作られた。プブリウス・アエディウス・アンフィオとアエディア・ファウスタ・メリオル。二人はかつて奴隷だったが、碑文はすでに解放された者であることを示している。

解放奴隷の夫婦が並んだ紀元前1世紀の墓碑

解放奴隷だったプブリウス・アエディウス・アンフィオと妻アエディア・ファウスタ・メリオルの墓碑。紀元前30年ごろ、ベルリン旧博物館。 写真:Gary Todd / Wikimedia Commons / CC0 1.0。

夫婦は正面を向いて並び、ローマの自由人が身につけた服装で表されている。碑文の中に見えるラテン語のLは解放奴隷であることを示す略記である。これは、本人たちがどのような姿で人々に記憶されたいと望んでいたかを伝える貴重な手がかりとなる。

この石を眺めると、解放後の暮らしにも多くの段階があったことが分かる。法によって自由の身分を得ること、結婚すること、子どもを育てること、仕事の成果を得ること、そして自分の名前を後世に残すこと。それぞれは簡単に与えられたものではなかった。

他方、二人のような立派な墓碑を用意できなかった解放奴隷も大勢いた。生涯奴隷のままだった人々にとっては、墓に名前を刻ませること自体が遠い希望だったかもしれない。現在読める碑文や見学できる豪華な建物は、古代社会の中でも資料を残しやすかった人々の姿をより多く伝えている。

シヴィタ・ジュリアーナの寝台を思い出したい。小さな部屋で眠った人々の名前は残らなかった。それでも、壺や箱、寝台、仕事道具がある。火山の噴火が保存した生活の痕跡から、古代の人々がそこで実際に眠り、働いていたと分かる。

ローマの都市と軍隊、邸宅と農場は、自由民だけで動いていたわけではない。奴隷にされた人々は、建物を清掃し、食物を加工し、土地を耕し、商いと家庭の仕事を支えた。その中には、自由を得て自分の名を石に刻ませた人もいた。家族と引き離され、生涯を終えた人もいた。

名前が残った人々と、残らなかった人々が同じ時代を生きていた。豪華な家の中庭にも、軍団が建てた砦にも、パン屋の窯にも、多くの人の労働が積み重なっている。

ローマ帝国の歴史を記念碑から知ることはできる。だが、狭い部屋に残された三台の寝台は、記念碑がほとんど語らなかった別の歴史を私たちに見せている。

同じ時代の住居、飲食店、浴場の暮らしは古代ローマ人の暮らしで、軍隊を支えた兵士たちの人生はローマ軍団の兵士たちで扱っている。帝国全体の歴史はローマ帝国の歴史へつながる。

ANCIENT ROME / COLLECTION

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皇帝と軍団、都市の暮らし、宗教、奴隷制、水道まで。関連する記事をひとつの特集にまとめています。

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REFERENCES

参考文献・出典

  1. Enslaved People at Pompeii and Environs ↗Sandra R. Joshel and Lauren Hackworth Petersen, The Oxford Handbook of Pompeii and Its Environs (2026), pp. 177–196
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  15. Appian on Spartacus (Civil Wars, 1.116–120) ↗Livius: translation of an ancient source
  16. Roman Slaves and Freedmen ↗PBS, The Roman Empire in the First Century
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