南アメリカのアンデス山脈、現在のボリビアの標高約4,000メートルの場所に、世界の経済を揺り動かした銀山の町があった。ポトシである。
16世紀、この町では山から銀鉱石が掘り出され、砕かれ、加工され、鋳造所で銀の貨幣や地金へ変えられた。UNESCOは当時のポトシを、世界最大級の産業複合体だったと説明している。

ポトシのセロ・リコ(豊かな山)。2016年撮影:Das Morton / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(表示用に縮小)。
山の鉱石を、大量の銀に変える工場
銀を掘り出せば、それですぐ貨幣になるわけではない。岩石に含まれた銀を分ける工程が必要だった。
ポトシでは鉱石を砕くために140基の処理設備が使われ、水車を動かす水のために22の人工貯水池が整備された。UNESCOの登録資料には、それらの産業遺構が現在も残っていると記されている。
高地で水を集め、運び、鉱石を加工する。大規模な銀生産は、山に穴を掘る仕事だけでなく、土木、機械、輸送、金融、鋳造を組み合わせる事業だった。
16世紀末には、水銀を用いて銀を抽出する方法が広く利用された。技術が生産量を増やした一方、水銀を扱う労働には健康被害の危険も伴った。
ポトシの豊かさを支えた人々は自由に働いていたのか
銀は植民地支配下のスペインへ運ばれ、スペインの国家財政や国際貿易へ影響した。しかし銀山の労働を単純に「仕事が増えて豊かになった」と描くことはできない。
スペインの植民地政府は、アンデスの先住民にミタと呼ばれる強制的な労働動員を課した。ポトシの鉱山では、厳しい条件で働かされた人々がいた。
UNESCOの記録によれば、17世紀のポトシには16万人の植民者と、ミタの仕組みによって鉱山で働かされた約1万3,500人の先住民がいたとされる。これらの数字は特定の歴史的状況についての記述であり、町に暮らしたすべての人の人口を同じ基準で数えた統計と考えるべきではない。
銀山の町には大きな富が集中した。その一方で、生産した富を誰が手にしたかは大きく異なった。
アンデスで採れた銀が、どうしてアジアへ届いたのか
ポトシ産の銀は南米からヨーロッパへ運ばれ、スペイン帝国の財政を支えた。さらにアメリカ大陸で生産された銀の一部は、太平洋を横断するマニラ・ガレオン貿易などを通じてアジアへ流れた。
中国などでは銀が大きな価値を持つ支払手段として使われていたため、銀を手に入れることがアジアの商品を買う助けになった。アメリカ大陸、ヨーロッパ、アジアの取引が結び付いた背景には、こうした銀の流れがある。
ただしポトシから掘られた銀がすべて直接マニラへ送られたわけではない。産地、精錬、運送、貿易の経路には複数の地域と商人が関わっていた。

セロ・リコの鉱山の入口。2019年撮影:Jbmurray / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(表示用に縮小)。
銀が増えれば、人々は必ず豊かになるのか
金属の量が増えることと、食料や衣服、住居が増えることは同じではない。大量の銀が流通すれば、物の価格や賃金、国家の借金や税にも影響する。
ポトシの銀は世界経済の取引を拡大させる力となった。しかし採掘の現場には強制労働と危険があり、利益の配分も不平等だった。
銀貨そのものが財産だった時代の世界経済は、アンデスの高山にある鉱山と、遠くアジアの商人たちによって結ばれていた。ポトシの歴史には、遠距離貿易の拡大と植民地支配の暴力が同時に刻まれている。