16世紀後半から、メキシコの太平洋岸にあるアカプルコと、フィリピンのマニラの間を巨大な商船が往復していた。
船がアジアから運んだのは、中国の絹や陶磁器、香辛料、象牙の細工など。逆方向へ運ばれた重要な品物は、アメリカ大陸で採掘された銀だった。
この貿易は1565年から1815年まで、約250年間続いた。ヨーロッパを中心とする大西洋の貿易とは別に、太平洋を直接横断する商業の道があった。

1590年ごろの『ボクサー写本』に描かれた、マリアナ諸島のチャモロの人々とスペインの船の接触場面。当時の記録図版であり、現代の復元画ではない。作者不詳 / Wikimedia Commons / Public domain。
なぜアジアの商品を、メキシコへ運んだのか
スペイン帝国は16世紀、アメリカ大陸だけでなくフィリピンにも植民地を築いた。マニラはアジアの商品を集める港になり、メキシコのアカプルコへ向けて商品を積んだ船が出港した。
マニラには中国や東南アジア、日本などの商人が集まり、絹、陶磁器、香辛料、漆器などが取引された。そうした品物はアカプルコへ運ばれ、メキシコの市場で売られたり、大西洋側まで陸路で運ばれてヨーロッパへ輸出されたりした。
ただしアジアの商品がすべてヨーロッパへ送られたわけではない。メトロポリタン美術館は、中国製陶磁器や象牙製品の多くがアメリカ大陸に残り、メキシコなどの工芸品や美術に影響したと説明している。
貿易は物を運ぶだけでなく、形や色、技術に関する好みも伝えていった。
銀と絹が交換された理由
アメリカ大陸のスペイン領では、ポトシなどの銀山で大量の銀が生産された。ヨーロッパの政府は貨幣や戦費のために銀を必要としたが、アジアでも銀は価値の高い支払手段だった。
中国などの商人にとって、銀は商品と交換してもらう価値のある金属だった。そのためスペイン領アメリカから流れた銀が、マニラを通じてアジアの商人へ渡っていった。
これはアメリカ大陸から運んだ銀が、常に同じ価格でどの地域でも使えたという意味ではない。銀の品質、貨幣の形、現地の市場の状況によって交換の条件は異なった。
それでも銀という比較的広く受け入れられる財が、大洋を越える商業を支えた。
一隻の船には、半年近い航海が必要な場合もあった
大西洋を横断するのと同じように、太平洋を横断する航海には大きな危険があった。帆船は風や海流を利用する必要があり、出発の時期も重要だった。
スミソニアン博物館が所蔵するマニラ・ガレオン貿易研究書の解説には、マニラとアカプルコの航海に5〜8か月かかることがあったと記されている。病気、嵐、難破、敵船に襲われる危険もあった。
船が沈めば商品だけでなく、積み荷を買うために出資した商人たちの資金も失われる。遠距離貿易が発達するほど、貨物への投資や信用、海上の危険をどう分担するかが重要になる。
太平洋貿易の背後にあった植民地支配
貿易には、現地の生産者、運送を担う人々、港町の商人、船員、植民地政府など多くの人が関わった。
しかしこの交易を、互いに対等な国が自由に取引した歴史と考えてはいけない。スペイン帝国による植民地支配や強制労働、課税、現地の社会への介入が背景にあった。銀を掘り出す現場でも、大きな負担と犠牲が生じた。
貿易が広がれば商品の種類は増え、経済の結び付きも強くなる。一方で、その利益を誰が得たかは別の問題である。
メキシコで銀を積んだ船がマニラに到着し、そこで中国の絹と交換する。そんな取引が数百年前から存在していた。
現在の世界経済でアジアとアメリカを結ぶ物流が重要なのは、決して新しい話だけではない。太平洋の商業の歴史は、近代的なコンテナ船や航空貨物が登場するはるか前に始まっていた。