1920年8月、米国テネシー州の議会は、女性が国全体の選挙で投票できる権利をめぐって激しく対立していた。
米国憲法を改めるには、州の四分の三の賛成が必要だった。女性参政権を認める第19条修正案には、すでに35州が賛成していた。あと1州の批准が必要だったのである。
その最後の鍵を握るテネシー州の議場に、24歳の議員ハリー・バーンがいた。彼には母から一通の手紙が届いていた。
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Febb Ensminger Burn、1920年/Wikimedia Commons/Public domain。
女性はすでに数十年も闘っていた
米国で女性参政権を求める運動は19世紀から続いていた。演説、署名活動、街頭での行進、座り込みなど、さまざまな方法で制度の変更が求められた。
1919年には連邦議会が第19条修正案を可決し、各州の批准へ回した。しかし36州目がなかなか決まらない。
テネシー州では支持派と反対派が集まり、新聞も投票の行方に注目していた。上下両院のうち下院での争いは接戦となった。
息子へ届いた母親の言葉
バーンの母親フィービーは、息子へ女性参政権を支持するよう手紙を書いていた。実際の手紙(全7ページ)も残っている。彼女は参政権運動の指導者キャリー・チャップマン・キャットを助けるよう促した。
議員の投票態度が変わった理由をすべて母親の手紙だけで説明するのは慎重であるべきだが、バーン自身は後に母の助言を理由の一つとして述べている。
米国国立公文書館の解説によれば、下院の採決は48対48の同数という局面もあり、バーンが賛成へ回ることで批准が進んだ。1920年8月18日、テネシー州は必要な36番目の州になった。
一通の手紙だけで制度が変わったわけではない
この逸話は記憶に残りやすいが、長年の運動を一人の若い議員と母親だけの物語にまとめるべきではない。
半世紀以上にわたって権利を求めた人々、議会で法案を通した政治家、州ごとの運動があって、ようやく最後の票が重要になった。
また1920年の憲法修正で米国の女性がすべて実際に平等に投票できるようになったわけでもない。人種差別的な州法などのため、多くの黒人女性やその他の人々が投票を阻まれ続けた。
それでもテネシー州の採決には、歴史の大きな変化が最後には一人ひとりの投票によって決まることが表れている。長い政治運動が必要とした最後の一票には、母から息子へ届いた手紙という小さな出来事が重なっていた。