現在の選挙では、投票所へ入ってから誰の名前を書いたかを他人に見せる必要はない。記入した紙を折り、箱へ入れる。ごく普通の行動だ。
しかし19世紀の英語圏では、誰に票を入れたか周囲に知られる方式が用いられる場所があった。雇い主、地主、取引相手が投票内容を知ることもできた。
そんな時代に登場したのが、記入内容を他人に知られないよう設計された投票制度である。
投票が見えると、何が困るのか
例えば大きな農場で働く人が、地主とは違う候補を支持していたとする。投票内容が分かれば、地主に仕事を失うような圧力をかけられるかもしれない。
買収も容易になる。お金を渡した相手が本当に約束した候補へ投票したか、確認できるからだ。
政治的な意見を表明する自由と、その意思を周囲に知られずに決定する自由は異なる。秘密投票は後者を守るための仕組みだった。
1856年のオーストラリアで何が変わったか
オーストラリアのビクトリア植民地では、1856年に秘密投票を採用する法律が成立した。投票者は公的な投票用紙を受け取り、他人に見られない場所で記入できるようになった。
オーストラリア民主主義博物館によると、同年には他の植民地でも秘密投票が取り入れられ、南オーストラリアでは候補の名前の横に印を付ける方式が発達した。
同館の年表には、秘密投票は1856年より前にもフランスなどで使用されていたことが記されている。オーストラリアが世界で最初に「秘密で投票する」という発想を生んだわけではない。
しかし官製の投票用紙や個別の記入場所と組み合わせた制度は、後に「オーストラリア式投票(Australian ballot)」として広まった。
票の秘密は、政治への参加を守る
秘密投票は、選挙結果を数える機械ではない。票を集計する前に、投票する人が周囲から自由になれるようにする制度だ。
イギリスでは1872年の投票法によって秘密投票が導入され、米国でも19世紀末に各州で採用が進んだ。国ごとに制度は異なるが、他人の目から投票内容を守るという考え方は広がっていった。
日本の選挙でも、投票内容の秘密は重要な原則として扱われる。
票を投じる時間は短い。しかしその数分の間に誰からも指図されないようにするため、長い政治改革の歴史があったのである。