百科事典 · 歴史

ローマ帝国の後継者は誰か――東ローマ、神聖ローマ、オスマン帝国、ロシアが受け継いだもの

この記事の目次
更新日:2026-10-31

西暦1453年5月、コンスタンティノープルの城壁が破られた。東地中海の巨大都市にオスマン軍が入り、最後の東ローマ皇帝コンスタンティノス11世は戦いのなかで姿を消した。

それから間もなく、征服者メフメト2世は、かつてローマ皇帝が君臨した都市を自らの都とした。だが、はるか西のヨーロッパにも、ローマ皇帝を名乗る君主がいた。さらに北のモスクワでは、やがて自分たちこそ正統なキリスト教世界を守る存在だという考えが生まれる。

同じローマに由来する権威が、異なる宗教、言語、政治体制のもとで求められていた。

では、ローマ帝国の後継国家は結局どこだったのか。答えは、何を引き継いだと考えるかによって変わる。皇帝の政府が途切れずに続いたのか、ローマで戴冠したのか、かつての首都を征服したのか、それとも信仰と文化を継いだのか。この違いを確かめるために、まず476年までさかのぼろう。

イスタンブールに残るアヤソフィア。東ローマ帝国の大聖堂として建てられ、オスマン時代にはモスクとなった

アヤソフィアの外観。撮影:Maksym Kozlenko / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(表示用に縮小)。一つの建物に、複数の時代の支配が重なっている。

476年、ローマという国はまだ生きていた

476年、ゲルマン人の軍司令官オドアケルが西側の若い皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させた。西ローマ帝国の滅亡としてよく紹介される事件である。

ところが、この年にローマの政府がすべてなくなったわけではない。東のコンスタンティノープルには皇帝ゼノンの宮廷があり、税を集め、軍隊を動かし、法律を制定する仕組みが続いていた。西側の皇帝がいなくなったことは重大な変化だったが、東側の人々からすれば、自分たちのローマ国家は終わっていない。

現代の歴史書で東ローマ帝国やビザンツ帝国と呼ぶ国家の人々は、自らをローマ人と考え、国をローマ人の国と呼んだ。首都がイタリアのローマではなく、主な行政・文化の言語が次第にギリシャ語になった後も、その意識は残り続けた。

6世紀の皇帝ユスティニアヌス1世は、西地中海の旧領の一部を取り戻そうと遠征し、ローマ法の編纂も進めた。後世の法律にまで影響した『ローマ法大全』は、古代ローマが消えた後に別の国で突然作られたものではない。ローマの皇帝を頂く政府の事業だったのである。

もちろん、330年のコンスタンティノープル整備から1453年まで政治も社会も変わらなかったわけではない。領土は縮小し、軍の制度は変わり、文化と言語も変化した。それでも政治組織の歴史をたどれば、東ローマ帝国は古代ローマから直接続いた国家だと言える。少なくとも、この点で後の神聖ローマ帝国やモスクワとは性格が異なっていた。

アヤソフィアに残る東ローマ皇帝コンスタンティノス9世のモザイク画

11世紀の東ローマ皇帝コンスタンティノス9世を表すモザイク。撮影:Dosseman / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(表示用に縮小)。

800年、西ヨーロッパでもローマ皇帝が誕生した

東側でローマ皇帝の統治が続いていた一方、西ヨーロッパではフランク王国が勢力を拡大していた。王カール大帝はイタリアにも進出し、ローマ教皇にとって欠かせない軍事的な後ろ盾となっていく。

800年のクリスマス、教皇レオ3世はローマでカール大帝に皇帝の冠を授けた。古代ローマ皇帝の権威を、西側で新たな形でよみがえらせる戴冠だった。

ただし、この儀式で東の帝国が西へ譲渡されたわけではない。コンスタンティノープルには当時、皇帝エイレーネーがいた。東の宮廷から見れば、自分たちが維持してきた皇帝の地位を、西側の教皇とフランク王が新たに主張し始めたことになる。

西側にとって重要だったのは、古代ローマの皇帝とキリスト教世界の守護者という権威を結び付けられる点だった。教皇が皇帝に冠を授ける光景は、西の政治と宗教の関係を象徴するものとなった。

カール大帝の広い領土は、その後の分割と争いによって姿を変える。962年には東フランク王国を基盤とするオットー1世が、ローマ教皇から皇帝の冠を受けた。これを後世の歴史で神聖ローマ帝国の成立の重要な起点とする。

この帝国の中心は現在のドイツ周辺で、イタリアや中欧にも支配・影響が及んだ。ローマ市そのものが帝国の行政首都だったわけではないし、皇帝がすべての領土を直接治めていたわけでもない。諸侯や都市、聖職者たちが強い権限を持ち、時代とともに政治の形は大きく変わった。

それでも皇帝の称号は大きな意味を持ち続ける。神聖ローマ帝国が最終的に解体されたのは1806年。東ローマ帝国が1453年に終わった後も、西側のローマ皇帝という制度的な主張は、さらに350年以上残ったのである。

ウィーンに保管されている神聖ローマ帝国の帝冠

神聖ローマ帝国の帝冠。制作年代は一般に10世紀後半ごろとされる。撮影:Sinistra / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(表示用に縮小)。

西と東には、同じローマの権威を主張する皇帝が並び立っていた。皇帝の地位をめぐる外交や競争は、ヨーロッパの政治に長く影響した。

1204年、東ローマは一度首都を失っていた

東ローマの皇帝が1453年まで首都を守り続けたと考えると、重要な出来事を見落としてしまう。

1204年、第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領した。十字軍は本来、聖地を目指す遠征だったが、政治や財政の事情が重なり、キリスト教国である東ローマの首都を攻撃するに至った。

西欧の十字軍勢力は首都にラテン帝国を建てた。ローマ皇帝の都を奪い、その皇帝の地位を新しい支配者が受け取ろうとしたのである。

しかし、東ローマの支配層や住民のすべてが征服を受け入れたわけではない。旧領の各地に、東ローマの政治・王朝の伝統を引き継ごうとする国々が現れた。

小アジア西部にはニカイア帝国、黒海の南岸にはトレビゾンド帝国、ギリシャ西部にはエピロス専制公国が成立し、それぞれの指導者が帝国の正統性や旧領の支配を争った。厳密な皇帝称号の使い方や他国からの承認は同じではなかったが、帝国の継承者が複数存在する状況になった。

1261年、ニカイア側がコンスタンティノープルを奪回し、首都の皇帝政権が復活する。ただし、この回復は昔の強大な帝国がそのまま戻ったことを意味しない。財政と領土は限られ、黒海沿岸のトレビゾンド帝国なども独自に存続した。

コンスタンティノープルの防衛を担ったテオドシウスの城壁。現在のイスタンブールに残る

コンスタンティノープルの城壁遺構。撮影:Apaleutos25 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(表示用に縮小)。1204年にも1453年にも、城壁に囲まれた都市の支配が争われた。

このときの後継国家は、古代ローマの名声だけを借りた国々とは事情が違う。直前まで存在した東ローマ帝国が、首都の占領によって分裂し、統治者が逃れた土地で国家を組み直したのである。ニカイアの政権が首都を回復したことが、その歴史を最もよく物語っている。

1453年、オスマン帝国は首都と皇帝の権威を手に入れた

15世紀には、東ローマの領土はコンスタンティノープルと周辺などに縮小していた。対してオスマン帝国は、アナトリアとバルカン半島にまたがる大国へ成長していた。

1453年、メフメト2世がコンスタンティノープルを攻略する。東ローマの皇帝政権はここで終わった。だが、都市も、そこで暮らす人々も、教会も、帝国の記憶も消滅したわけではない。

メフメト2世は都市をオスマン帝国の都として再建し、旧東ローマ領の人々を統治した。ローマ皇帝を意味する称号に由来する**カイセル・イ・ルーム(Kayser-i Rûm)**と、彼や後のスルタンとの関係も語られる。

ここには注意が必要だ。メフメト2世が征服によってローマの権威を利用しようとしたことと、オスマン帝国の国家が東ローマから法律上そのまま移ったことは同じではない。また、オスマンのスルタンが常にローマ皇帝の称号を最も重要な肩書として使ったわけでもない。研究では、公式文書におけるその使用は限られ、16世紀以降のハプスブルク家との競争のなかでローマ皇帝の継承を示す表現が増えたと指摘されている。

オスマン帝国はイスラム教を掲げる王朝国家だったが、正教徒を含むさまざまな住民を統治した。旧東ローマの土地、首都、住民を引き継いだことには実質的な意味があった。しかし統治王朝・宗教・国家制度の連続性という点では、東ローマがそのままオスマン帝国になったとは言えない。

オスマン帝国のスルタンが暮らし、政務を行ったトプカプ宮殿の門

コンスタンティノープル征服後に整えられたトプカプ宮殿の門。撮影:Shoakat hossain / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(表示用に縮小)。

なお、1453年の後にも、黒海沿岸のトレビゾンド帝国は残っていた。こちらがオスマン帝国に征服されたのは1461年である。古代ローマにつながる東方の政治勢力の終わりを、1453年という一日の出来事だけで語り切ることはできない。

モスクワはどうして第三のローマを名乗ったのか

コンスタンティノープルが失われた後、東方正教会の信仰を受け継ぐ国々は大きな変化に直面した。その一つが、モスクワを中心に勢力を広げていたロシアの国家である。

モスクワの大公イヴァン3世は、東ローマ最後の皇帝の一族であるゾエ(ソフィヤ)・パレオロギナと結婚した。王朝の婚姻は、東ローマとの関係を示す一つの材料となったが、婚姻だけで皇帝の位や東ローマの領土が移ったわけではない。

16世紀初め、修道士フィロフェイに結び付けられる文章に、ローマ、コンスタンティノープルに続く第三のローマとしてのモスクワという考えが現れる。よく知られるのが、二つのローマは倒れ、第三は立っており、第四はない、という趣旨の言葉だ。

重要なのは、この思想が単なる世界征服の宣言として生まれたわけではないことだ。正しい信仰を守る最後の拠点としてモスクワを考える宗教的な意味が大きかった。しかも当時の国家の公式政策をすべて支配した理念でもなく、後世になって異なる意味で読み直されていった。

1547年にはイヴァン4世がツァーリとして戴冠する。ツァーリという称号はローマのカエサルに由来する。さらに1721年、ピョートル1世の時代にはロシア帝国が成立した。ただし、ロシアが皇帝の称号を使ったことは、モスクワが1453年に東ローマの政府を直接引き継いだ証拠にはならない。

モスクワのクレムリン。ロシア国家と正教会の権威の中心となった場所

モスクワのクレムリン。撮影:AlixSaz / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(表示用に縮小)。

第三のローマは、政治的な領土継承というより、宗教的な使命と君主の権威を結び付ける考えとして理解したほうが、その歴史的な姿に近い。

どの国がローマを受け継いだのか

東ローマ、神聖ローマ、オスマン、モスクワは、同じ資格で競ったわけではなかった。

国家・政権ローマとの関係区別しておきたい点
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)古代ローマから政府と皇帝の制度が連続した言語・領土・社会は長い時間をかけて変化
ニカイア帝国など1204年の首都占領後、東ローマの支配層が成立させた後継諸国ニカイアは1261年に首都を回復
フランク王国・神聖ローマ帝国ローマ教皇の戴冠と西欧の皇帝制度を通じてローマの権威を継承東ローマの政府が直接移ったわけではない
オスマン帝国旧首都と旧領、住民を支配し、ローマ皇帝の権威にも言及征服による継承の主張であり、国家制度は別の系譜
モスクワ大公国・ロシア正教の伝統、王朝婚姻、第三のローマの思想、皇帝称号東ローマの国家そのものの継続ではない

ほかにも中世のブルガリアやセルビアの君主は、ローマ人との関係を含む皇帝称号を用い、東ローマに並ぶ権威を主張した時期がある。ローマの皇帝をめぐる政治的な競争は、二つの大帝国だけで完結していなかった。

現代のイタリア、ギリシャ、ルーマニアにもローマに由来する言葉、宗教、都市、法律や文化の遺産がある。ルーマニアという国名にさえローマとの歴史的なつながりが表れている。しかし文化的な継承や国名の由来と、古代国家の法的・政治的な存続は区別しなければならない。

イタリアの都市としてのローマ、コンスタンティノープルの皇帝を継いだ東ローマ、教皇が冠を授けた西欧の皇帝、都市を征服したオスマンのスルタン、信仰を守る使命を掲げたモスクワ。それぞれが受け取ろうとしたものは異なっていた。

だから、ローマ帝国の後継国家を一つだけ答えるなら、古代ローマから国家として直接続いた東ローマ帝国が最も明確だ。一方、ローマの皇帝号や宗教的な権威、文化的な影響が誰に受け継がれたかという問いには、複数の国が登場する。

西側の皇帝がいなくなった476年も、東の都が征服された1453年も、ローマの歴史に決定的な変化をもたらした。しかし、それまでローマと結び付いていた権威や文化は、そのたびに別の人々の手へ渡っていった。

ANCIENT ROME / COLLECTION

ローマの歴史を、続けて読む。

皇帝と軍団、都市の暮らし、宗教、奴隷制、水道まで。関連する記事をひとつの特集にまとめています。

ローマ特集へ戻る
REFERENCES

参考文献・出典

  1. Byzantium (ca. 330–1453) ↗Sarah T. Brooks, The Metropolitan Museum of Art (2001, revised 2009)
  2. The New Roman Empire: A History of Byzantium ↗Anthony Kaldellis, Oxford University Press (2023)
  3. Byzantine Empire: 3. 1204–1461 ↗Mike Carr, The Encyclopedia of Empire, Wiley (2016)
  4. The Coronation of Charlemagne ↗Deutschlandmuseum, 25 December 800
  5. The Establishment of the Holy Roman Empire ↗Deutschlandmuseum, 2 February 962
  6. The Myth of the Byzantine Origins of the Osmanlis: An Essay in Interpretation ↗Byzantine and Modern Greek Studies, Cambridge University Press
  7. Moscow: The Third Rome ↗Nick Mayhew, Oxford Research Encyclopedia of Literature (2021)
  8. Moscow, the Third Rome: A Contribution to History of Russian Messianism, Part I ↗Milan Subotić, Philosophy and Society, 22(1), pp. 167–192 (2011)

リンク先は外部サイトです。本文は資料を参考に独自に執筆しています。