明治6年、1873年。日本政府は土地にかかる税金の仕組みを大きく変えた。
それまで年貢として米などを納めることが中心だった農村では、土地の価格を基に計算した税額を、現金で納める方式が導入された。税率の基本は地価の3%。そして税額は、原則としてその年の豊作や凶作では変わらない。
政府にとっては収入を見通しやすい制度だ。しかし農家の暮らしを考えると、変化はそれだけでは済まなかった。

秋田県発行の歴史的文書・Mbdnoob撮影 / Wikimedia Commons / Public domain。
土地の価格を決めることから始まった
江戸時代には、農地の収穫や石高と結び付いた年貢が大きな役割を占めていた。地域によって制度は異なり、金銭で納める場合もあったが、全国で一律の土地課税制度が整っていたわけではない。
新しい政府は、学校、軍事、行政、道路、鉄道など多くの事業を進めるため、毎年どの程度の税収が入るかを見通す必要があった。そこで土地を調査して所有者を明確にし、地価を計算する仕組みを整えた。
国立公文書館が公開する1873年の地租改正条例の解説によれば、課税額は土地からの収益を基に算定した地価の3%とされ、地券の所有者が納税者となった。
地主が所有する土地なら、税を納める人は耕している農民と同じとは限らない。土地を誰が持ち、誰が利用し、その利益や負担をどう分けるかという問題が、新しい制度で重要になった。
豊作でも凶作でも、税は原則同じ
例えば地価100円と評価された土地では、当初の税額は年3円と計算される。これは制度の仕組みを示す単純な例で、すべての農家の税額が同じだったわけではない。
豊作なら3円を払っても多くの収穫を手元に残せるかもしれない。しかし凶作で収穫が減っても税額は原則3円のままだ。
さらに税金は現金で納める必要がある。米を食べるために作っていても、税金を払うためには米を売って現金を用意する場合がある。
もし米価が下がれば、同じ税金を納めるためにより多くの米を売らなければならない。税の仕組みが変わることで、農業と市場価格の関係が一層強まったのである。
政府の安定した財政と、農村の負担
地租改正は明治政府にとって大きな財政上の意味があった。税収をより予測しやすくすることで、近代国家の行政や公共事業の財源を支えることができた。
国税庁の税務大学校は、地租制度の整備が政府の安定した財政基盤を確立することにつながったと説明している。
その一方、農村では地価の評価や税負担をめぐる不満が起こり、反対運動も生じた。政府は1877年に地租の税率を当初の3%から2.5%へ引き下げた。
政策は政府にとって合理的でも、負担が誰に集中するかによって評価は変わる。現金を使う市場の拡大と安定した財政を支えた制度が、農民にとっては不作時の困難を深めることもあった。
たった一枚の地券が、経済の何を変えたのか
上の写真は1879年に秋田県で発行された地券だ。土地の所有を示すこうした証書は、土地を取引したり、所有と課税の関係を確かめたりする仕組みの一部だった。
国家の帳簿に土地を記録し、一定の基準で税金を課す。これによって政府の財政は整いやすくなる。土地の売買や担保としての利用にも、所有を記録する制度は意味を持った。
米を納める農業社会から、貨幣を通じて税を支払う社会へ。地租改正の重要性は税率の3%という数字だけにない。農村、国家財政、土地の所有、市場を結ぶ仕組みが変わったのである。