現代の先物取引といえば、原油や金、株価指数などを扱う巨大な金融市場を想像する。ところが、その原型の一つをたどると、江戸時代の大阪で米を取引していた商人たちに行き着く。
1730年、徳川幕府は堂島米会所で行われていた取引を公認した。ここでは米を現物で売買するだけでなく、帳簿の上で将来の米価を見込んで契約する仕組みが発達していた。日本取引所グループは、堂島米会所を世界の組織的な先物取引所の先駆けとして紹介している。

江戸期の堂島米会所を描いた浮世絵。後世の作品であり、1730年当日の記録画ではない。画像:佐々木芳光(19世紀の浮世絵) / Wikimedia Commons / Public domain(表示用に縮小)。
武士の給料が米だったことから始まる
江戸時代の大名たちは、領地から米を年貢として集めていた。米の多くは大阪などへ運ばれ、藩の蔵屋敷に保管された。藩はその米を売って現金を手に入れ、必要な支出を賄った。
しかし、蔵にある米をすべてすぐに運び出したり、現物を取引のたびに受け渡したりするのは大変だ。そこで米切手が使われた。米を受け取る権利を示す証書であり、米そのものを動かさなくても権利を売り買いできた。
この証書が売買されることで、現物の米とは別に、権利の市場が発達した。ある人が持つ紙が、蔵にある米の受取人を表していたのである。
将来の米の値段で取引をする
堂島では、米切手の取引に加え、将来の価格変動を見込んだ帳合米商いも行われていた。
たとえば今後の米価が上がると考える人は買いの立場に立ち、下がると考える人は売りの立場に立つ。決められた時期に取引を清算する仕組みがあり、取引のたびに実物の米を運ぶ必要はなかった。
現代の先物市場でも、将来の受け渡しや決済の条件をあらかじめ決めて取引する。実際の生産者や販売者が価格変動の危険を管理する場合もあれば、価格変動から利益を得ようとする投機的な取引もある。江戸時代の堂島でも、米価の変化が損益を生んだ。
ただし、江戸の堂島が現代の取引所と同じ法律やコンピューター取引を備えていたわけではない。「世界最初の先物取引所」という紹介は、公認された組織的な市場と清算の仕組みに注目した評価だ。古い時代にも将来の受け渡しを約束する取引そのものは、別の場所に存在していた。
価格情報は旗で遠くまで運ばれた
さらに面白いのは、堂島で決まった米価が大阪だけの情報ではなかったことだ。
日本取引所グループの資料は、米価が飛脚や旗による合図で数百キロ離れた都市に伝えられたと紹介している。現代の株価速報とは速度も手段も違うが、遠く離れた市場の人々に価格を伝える仕組みが工夫されていた。
米を買う人も売る人も、相手がどのような値段を付けているのか知らなければ取引しにくい。価格情報は市場の重要な一部だった。
堂島米会所の仕組みを単純化したオリジナル模式図。
江戸の米市場から現代の金融市場へ
堂島米会所が公認されたのは、藩の財政と米価が深く結び付いた社会だったからだ。米は食料であるだけでなく、税、藩の収入、武士の生活、商人の金融に関係していた。
取引の組織、清算、証書、価格情報の伝達。現代の金融市場を理解するときに登場する要素が、江戸時代の大阪ですでに見られたことになる。
コンピューターも証券取引所のビルもない時代に、将来の価格を取引していた人々がいた。そのことを知ると、金融市場の歴史が意外なほど身近になる。