1919年6月、第一次世界大戦の講和条件を決めるパリの会議から、英国代表団の若い経済担当者が去った。ジョン・メイナード・ケインズ、35歳。
戦争に勝った国々は、敗れたドイツにどれほどの賠償を求めるかを議論していた。ケインズは、このままではヨーロッパの経済が立ち直れないと考えた。政府の仕事を辞め、数か月後に一冊の本を出版する。
『平和の経済的帰結』は、大きな論争を呼んだ。敗れた国を苦しめれば戦争が終わるというものではなく、ヨーロッパ全体の生産と貿易を立て直す必要があるという主張だった。
それから10年。1929年に始まった世界恐慌は、ケインズに別の難題を突きつける。
工場も機械もあり、働きたい人もいる。なのに失業者は増え、商品は売れず、景気は戻らない。
市場がうまく働けば、仕事を探す人はいずれ雇われるはずではなかったのか。この疑問が、彼の代表作につながっていく。

1929年のケインズ。撮影者不詳 / Wikimedia Commons / Public domain。世界恐慌が始まった年の肖像。
ケインズは学者であり、官僚であり、新聞で議論する書き手だった
1883年、ケインズは英国ケンブリッジで生まれた。数学や哲学を学び、のちに経済学へ進む。英国大蔵省で働きながら、大学で研究し、新聞や雑誌でも自分の考えを発表するようになった。
第一次世界大戦中は財政と国際金融の仕事に携わり、戦後の講和会議にも参加した。1919年の辞職と著書の出版によって、経済学者としての名前が広く知られるようになった。
けれど、当時のケインズの生活が役所と大学の往復だけでできていたわけではない。
彼はロンドンのブルームズベリーを中心に集まった芸術家や作家の友人たちと交流し、絵画や演劇を愛好した。ロシア出身のバレリーナ、リディア・ロポコワと恋に落ち、1925年に結婚している。
ケインズはロポコワの舞台を繰り返し見に行き、彼女も彼の文章を熱心に読んだ。ケンブリッジ大学出版局が刊行したピーター・クラークの研究では、二人の手紙を通して、ケインズが専門家以外にも伝わる文章を書くようになった経緯が論じられている。
経済理論だけを見ていると、ケインズは財政支出を主張した学者に見える。実際には、戦争や演劇、新聞、投資、国際交渉の現場を行き来していた人物だった。
なぜ給料を下げても、仕事が増えないことがあるのか
世界恐慌が深刻になると、企業は工場の生産を減らし、人を雇うのを控えた。失業者が増えると家庭の収入も減り、商品を買う人がさらに少なくなる。商品が売れなければ、企業は新しい設備への投資を見送る。
これは、一つの工場の判断なら理解しやすい。しかし社会全体で同じことが起きると、全員が節約するほど、全員の収入が減ってしまう場合がある。
例えば一家が収入を失い、近所の店で買い物を控える。店の売上が減り、店主は修理や仕入れを延期する。修理を頼まれるはずだった業者の収入も減る。業者もまた支出を控える。
このようにある人の支出は、別の人の収入になる。
昔から経済学では、労働者の賃金が下がれば雇う側の負担が軽くなり、雇用が増えると考える立場があった。だが経済全体で賃金が下がれば、商品を買う力も弱くなる。企業が売れる見込みを持てなければ、安く雇えても人を増やさない。
ケインズは、働く意欲も生産能力もあるのに、支出が足りないため仕事が生まれないという状態を考えた。
需要不足による不況の悪循環を示す模式図。現実の不況には他の原因もある。
1936年、経済学の議論を変えた本
ケインズが1936年に出版した『雇用・利子および貨幣の一般理論』は、失業が長引く理由を、社会全体の支出と投資の動きから説明しようとした。
企業が将来の売上を悲観すれば、金利が下がっても設備を増やさない場合がある。投資が減れば建設や機械の仕事が減り、そこに働く人の収入も失われる。経済には、需要不足から抜け出しにくくなる局面がある。
そこで政府が公共事業などに支出すれば、建設会社や労働者の所得が生まれ、受け取った人が別の店で買い物をする。支出が次の支出へつながる効果を、乗数効果と呼ぶ。
ただし、政府がお金を使えば何でも景気が良くなるということではない。材料や人手が足りない時期に支出だけを増やせば、価格が上がる可能性がある。景気対策の効果は、不況の原因、経済の余力、政策の内容によって変わる。
ケインズが残した大きな問いは、政府が何円使うべきかという数字だけにあるのではない。一人一人にはもっともらしい節約や投資の判断が、社会全体では不況を長引かせることがあるという視点だった。
IMFの解説でも、需要不足と経済活動の落ち込みを理解することがケインズ経済学の中心として紹介されている。
その本人も、投資では思いどおりにいかなかった
経済全体を研究したケインズには、投資家という別の顔もあった。
1920年、為替投機で巨額の損失を出して資金繰りに追われ、知人から資金を借りるほどになった。1929年の株価暴落でも損失を経験している。
それでも投資をやめず、やがて景気や相場の先読みより、個別の企業の価値を調べて株を長く持つ方法へ傾いていった。
その経験は『一般理論』に出てくる株式投資の説明とも響き合う。ケインズは新聞の美人投票を例に取った。自分が一番美しいと思う顔を選ぶのではなく、ほかの参加者が選びそうな顔を予測して投票する。株価の短期的な動きも、人々が互いの期待を読み合うことで決まる部分がある。
この例えが本人の1936年の著作にあることは、原文でも確認できる。
市場の予想がどれほど難しいかを身をもって経験しながら、その市場を理論の中でも考察したのである。投資家ケインズの長い失敗と転機には、当時の取引記録を調べた研究の結果もまとめた。
最後は、戦後の国際通貨制度づくりへ
第二次世界大戦のさなか、ケインズは再び国家の仕事へ戻る。今度は戦後に世界の貿易と通貨をどう安定させるかという問題だった。
1944年のブレトンウッズ会議では英国側の代表者として参加し、米国のハリー・デクスター・ホワイトらと戦後の国際通貨体制をめぐって交渉した。各国の外貨事情も違い、英国の提案がすべて採用されたわけではない。
しかし、この交渉は国際通貨基金(IMF)や世界銀行の成立につながり、戦後の世界経済を長く支える制度の出発点となった。
1919年、勝った国々による講和の経済的帰結を危ぶんで辞職した35歳の経済担当者。その後、失業がなぜ長引くのかを考え、経済学の議論を変え、1944年には国際経済の制度を作る側にいた。
ケインズの仕事を貫いていたのは、目の前の経済が人々の予想どおりに動かないとき、何が起きているかを理解しようとする姿勢だった。