江戸時代に全国旅行をした人が、ある城下町で紙のお金を受け取ったとする。別の藩へ移動してその紙幣を使おうとしても、同じ条件で受け取ってもらえるとは限らなかった。
現在の日本では、全国で日本銀行券を使える。しかし江戸時代には、幕府の金貨・銀貨・銅銭に加え、藩や商人が独自の紙幣を発行していた。日本銀行の貨幣博物館によれば、明治初めまでに西日本を中心とする200余りの藩が藩札を発行していた。
_-_Hansatsu_-_British_Museum.jpg?width=1050)
大英博物館所蔵の江戸期の紙幣 / Wikimedia Commons / Public domain。
細長い紙が、金属のお金の代わりになった
江戸時代の藩札には、現在の千円札のような横長の紙幣とは違い、細長い札が多い。紙に絵柄や文字が印刷され、発行する組織や額面が記されていた。
1661年には越前福井藩が藩札を発行したと、国立印刷局の歴史資料に記録されている。しかし日本の紙幣はその時に突然生まれたわけではない。伊勢山田では1600年ごろ、商人の間で山田羽書という紙が銀貨の端数を扱う手段として流通していた。
それらの紙に貴金属と同じだけの材料価値があったわけではない。人々は発行者が責任を持って交換に応じることや、ほかの人も取引で受け取ることを信じて使った。
幕府は地域による紙幣の発行をいつも自由に認めていたわけではない。1707年には使用を禁止し、1730年にはその禁止を解いた。江戸時代を通じて発行の政策が変わっていたことも、日本銀行の展示資料に残されている。
藩札の単位は円ではなく、米や傘だったこともある
藩札の額面は金や銀、銅銭の単位で記されることが多かった。しかしそれだけではない。
カナダ銀行の貨幣博物館は、江戸時代の地域紙幣には木炭や傘のような商品を単位とするものもあったと紹介している。日本銀行の常設展示図録にも米を単位とする札が掲載されている。
当時の紙幣には、何かを受け取る権利を紙で表すものがあった。米札なら米を交換の裏付けとしていた場合がある。金属貨幣を持ち運ばずに取引する仕組みが、地方ごとに工夫されていた。
ただし、すべての藩札が必ず米や銀と十分な準備金を持って交換できたわけではない。発行量や信用は地域と時代によって異なり、交換に困難が生じることもあった。
旅行者だけでなく、商人にも複雑だった
江戸時代の金・銀・銅銭自体も、現在のように単純な固定比率で全国どこでも交換できたわけではない。金貨と銀貨の交換相場が変化し、その違いが商人の損益に影響することもあった。
そこに地域の藩札が加われば、取引にはさらに判断が必要になる。地元で広く受け取られる紙幣が、遠い地域ではそのまま使えないかもしれない。どの貨幣を受け取るか、どこで交換できるかが商業の条件となる。
紙幣の流通は貨幣不足を補う便利な仕組みでもあった。地域内で取引を行いやすくする一方、発行者の財政が悪化すれば不安も広がる。そのため藩札の歴史は、単に珍しい紙幣の収集にとどまらず、地域政府の信用と財政の歴史でもある。
どうして全国で同じ円を使うことになったのか
明治政府は1871年の新貨条例で円を導入し、貨幣制度を整理していった。政府紙幣や国立銀行券などが発行され、1882年には日本銀行が設立される。
今日のように日本銀行が紙幣を独占的に発行する制度は、こうした変化の後に成立したものだ。古い藩札は新しい貨幣制度の整備にともなって回収され、やがて姿を消した。
江戸時代の日本は統一国家として政治的な仕組みを持ちながら、紙幣の発行者が地域ごとに違う社会だった。細い一枚の紙が、そのことを現在に伝えている。