北宋の時代に描かれた『清明上河図』には、川を進む船、橋を渡る人々、通りで商売をする店主、荷物を運ぶ人が細かく描き込まれている。これは単なる美しい風景画ではない。約900年前の中国に、大規模な都市経済が存在したことを今に伝える作品だ。

北宋の画家・張択端『清明上河図』の一部(複製:Immanuel Giel)。画像:Wikimedia Commons / Public domain(表示用に縮小)。
宋代の開封、そして南宋の都・杭州は、いずれも人口約100万人に達したと推計される都市だった。正確な人口調査による数字ではないが、当時のヨーロッパの多くの都市よりずっと大きかったと考えられている。
さらに面白いのは、商業都市が大きくなったことだけではない。街の中で商売をする場所が変化していた。
指定された市場から、街路の商店へ
唐代の長安などでは、商業活動が一定の市場区画や時間に制限されていた。ところが宋代にはその規制が次第に緩み、店は通り沿いに立ち並び、城壁の外側にまで商業地区が広がっていった。
コロンビア大学の宋代経済史教材は、この変化を商業が都市内の特定区画に閉じ込められなくなったこととして説明している。
食べ物や日用品を買う人が街路を行き交い、商人は人の集まる通りに店を出す。飲食店、宿屋、荷物運び、船の運航など、物を作る以外の仕事も発達した。

『清明上河図』の街路と商店(複製:Immanuel Giel)。画像:Wikimedia Commons / Public domain(表示用に縮小)。
経済が発達するとは、物を作る量が増えることだけではない。買いたい人と売りたい人が出会いやすくなり、運送・飲食・宿泊などの仕事が増えることでもある。
農村も、市場に合わせて生産するようになった
当時の農家が自分たちの食料だけを作っていたわけではない。余剰の農産物を売り、茶や油、木炭などを買って暮らす人々がいた。地域によって茶、絹、砂糖などの商品作物の生産も広がった。
市場向けに特定の作物を多く生産すると、収入を得られる反面、商品の値段に生活が左右される。自給自足だけではない暮らしが、宋代には広く見られた。
開封や杭州が大勢の人口を養うには、都市の外から米などを運ぶ必要がある。運河や河川を使った輸送網は、重い食料を運び、都市で販売するために欠かせなかった。
紙幣が登場していたが、現代の経済ではない
宋代中国では金属貨幣だけでなく、紙幣の交子も使われ始めていた。重い銭貨を移動させずに取引するための工夫だった。
宋代の商業の発達を、近代ヨーロッパの前段階としてだけ捉える必要はない。商業や信用が発達しても、政治、軍事、技術、人口、資源の条件は地域ごとに違う。宋代の中国は独自の都市と市場を持っていた。
また、『清明上河図』は芸術作品であり、都市の取引額や人口を測った統計ではない。絵巻のにぎわいが、すべての住民の豊かさを意味するわけでもない。大都市には貧困もあり、宋政府は救貧や医療を行っていた。
それでも、店で売る人と買う人、運ぶ人、作る人が一枚の絵の中につながっている光景は、当時の経済の重要な特徴を示している。人々はすでに、顔も知らない多くの人々の仕事によって毎日の生活を成り立たせていたのである。