1907年11月3日、日曜日の夜。ニューヨークのマディソン街にある私設図書館に、金融界の有力者たちが集められていた。
館の主人は70歳の銀行家、ジョン・ピアポント・モルガン。鉄道会社の再建や巨大企業の設立に関わり、ウォール街に絶大な影響力を持つ人物だった。現在のJPモルガンの名前も彼に由来する。
集まった銀行家たちは、その夜、簡単には帰れなかった。モルガンは図書館の扉を施錠し、危機に陥った金融機関を助けるための資金を出すよう求めた。交渉は夜通し続き、翌朝4時を過ぎて、ようやく支援金の拠出がまとまった。
なぜ国の金融システムを守る話し合いが、政府の建物ではなく、一人の銀行家の図書館で行われていたのか。
当時のアメリカには、金融危機で銀行へ緊急資金を供給する現代のFRBのような中央銀行が存在しなかった。経済大国の金融市場を襲った混乱を収めるために、民間の大富豪が銀行家たちをまとめていたのである。
その混乱の発端は、わずか数週間前の銅鉱山会社の株式取引だった。
銅の株をめぐる失敗が、銀行を巻き込んだ
20世紀初頭のアメリカは急成長の時代にあった。鉄道網が広がり、製鉄や石油などの巨大企業が生まれ、ニューヨークには莫大な資金が流れ込んでいた。しかし、急速に発達した金融市場を支える制度には弱点が残っていた。
1907年10月、投機家たちがユナイテッド・カッパーという銅鉱山会社の株を買い集め、相場を操ろうとした。株を借りて売り、後で安く買い戻すつもりの投資家たちを追い詰め、高い値段で買い戻させる計画だった。
ところが作戦は失敗し、株価は急落した。普通なら投機家たちが大損して終わる話だったかもしれない。問題は、彼らが複数の銀行の経営にも深く関わっていたことだ。
投機の損失が銀行に波及するのではないかと疑われ、預金を引き出そうとする人が現れた。銀行の財務状況を毎日調べている預金者など、ほとんどいない。危ないという噂を聞けば、ほかの人より早く現金を引き出したくなる。
だが預金者たちが同時にそう考えると、本来は経営を続けられる銀行さえ倒れかねない。銀行は預金を全部金庫に保管しているわけではない。企業へ貸したお金は、預金者が押し寄せたからといって今日中に返してもらえるものではないのだ。
当時のニューヨークには、銀行に似た業務をする「信託会社」が数多く存在した。預金を受け入れて資金を貸し出していたが、規制は銀行より比較的緩く、現金準備も少なかった。1907年頃、信託会社の現金準備は預金額のおよそ5%。国法銀行は約25%だった。
しかも、銀行同士には資金不足に陥った仲間を支援するための決済組織があった一方、多くの信託会社はその枠組みの外にいた。好景気のときには目立たなかった違いが、取り付け騒ぎでは大きな問題になる。
助けなかった銀行と、助けた銀行
10月22日、ニューヨークのニッカーボッカー信託会社に預金者が殺到した。経営者と投機家たちとの関係が疑われ、信用が揺らいでいたのである。
救済を求められたモルガンは、部下のベンジャミン・ストロングらに帳簿を調べさせた。しかし短い時間では、会社の資産が十分かどうか判断できなかった。モルガンは救済を断り、ニッカーボッカーは約800万ドルの預金引き出しを受けて営業を停止した。
すると恐怖は別の信託会社にも広がる。次に危機に陥ったトラスト・カンパニー・オブ・アメリカに対しては、モルガンは資金集めに動いた。
経営が根本的に行き詰まっている会社へお金を注ぎ込むのと、一時的に現金が不足している会社を支えるのでは意味が違う。モルガンは、すべての金融機関を無条件に助けたわけではなかった。
資金不足は株式市場にも及んだ。証券会社が日々の取引のために借りる短期資金の金利は、10月22日に年率換算で9.5%から70%へ急騰し、二日後には100%に達した。それでも借り手が資金を調達できない場面があった。
金融機関が預金者への支払いのために現金を集めれば、株を取引する人々へ貸せるお金が減る。株式市場が動かなくなりかねない事態に、モルガンは大手銀行や実業家から現金を集め、取引所へ送り込ませた。石油王ジョン・D・ロックフェラーも資金を提供し、政府の財務省も銀行への預金などを通じて支援した。
危機を収めたのはモルガン一人ではない。それでも、互いを疑う金融機関に協力を求める中心人物が、民間の銀行家だったことは異例だった。
深夜の図書館で決まった救済
11月初めになっても、信託会社をめぐる不安は残っていた。追加資金がなければ、また金融機関が危機に陥るおそれがあった。
そこで11月3日の夜、モルガンは信託会社の幹部たちを自分の図書館へ呼び集めた。
現在も残るモルガン図書館は、希少な書籍や美術品を収集していた彼のために建てられた豪華な建物だ。図書館・博物館の公式解説によれば、モルガンは幹部たちを集めて正面の扉を静かに施錠し、その夜のうちに決着をつけようとした。翌朝4時過ぎ、参加者たちはそれぞれ一定額を拠出する約束に署名した。
金融危機はその後収束へ向かった。しかし銀行の窓口で始まった混乱は、一般の人々の生活にも影響を残した。翌年にかけてアメリカの実質GDPは約11%減り、工業生産も約16%落ち込んだ。金融市場が落ち着いても、失われた仕事や売上がすぐ元に戻るわけではなかった。
そして別の問題が残った。次に同じような恐慌が起きたら、誰が救済の中心になるのか。モルガンほど多くの銀行家から信用され、巨額の資金を集められる人物が次の世代にも現れる保証はない。本人が救済を断ることもある。国の経済が、一人の大富豪の判断に大きく左右されてよいのか。
危機のさなかにはモルガンの行動を称賛する声が強かった。一方、ウォール街の少数の富豪へ権力が集中していることへの警戒も消えなかった。
大富豪の代わりに、何をつくるか
当時のアメリカには、経済が必要とする現金の量を簡単に増やせないという問題もあった。秋には農産物の収穫や流通で現金の需要が増えるのに、銀行券の発行には国債の保有などの条件があり、すぐには対応できなかった。
1907年の恐慌は、制度改革を後押しした。1908年には議会が金融制度を調査する委員会を設け、1910年には政治家や銀行家がジョージア州沖のジキル島に秘密裏に集まり、中央銀行制度の改革案を練った。銀行界に権力を集中させることへの反発もあり、議論は簡単にはまとまらなかった。
1913年、アメリカで連邦準備制度を設立する法律が成立した。現在のFRBへつながる中央銀行制度である。
FRBができたからといって、金融危機がなくなったわけではない。世界恐慌も2008年の金融危機も、その後に起きている。それでも、銀行が資金不足に陥ったときの対応を、大富豪の人脈や個人の判断だけに頼らない仕組みが生まれた。
2008年には、モルガンの名を受け継ぐJPモルガン・チェースが、FRBの融資を伴う取引で経営危機のベアー・スターンズを買収した。かつて民間のモルガンが金融市場を支えた時代から約100年。今度は中央銀行の支援がある制度の中で、彼の名前を持つ金融グループが危機への対応に加わったのだった。