海底の岩には、魚やカニが隠れられる細い隙間がある。タコはそこへ柔らかな腕を差し込み、吸盤を押しつけながら奥を探る。目が届かない岩の裏側でも、腕はしばらく動き続け、ときには獲物をつかんで引きずり出す。
吸盤はものを吸いつけるためだけの器官ではない。表面に触れたものの化学的な性質も調べている。タコは腕で触ることと、味を調べることを同時に行えるのだ。

米国の水族館で撮影されたタコの腕。吸盤が列を作って並ぶ様子がよく分かる。 写真・出典:Betty Wills(色調補正:Togabi) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。
2020年、ハーバード大学の研究チームは、タコの吸盤にある特殊な化学受容体の働きを詳しく調べ、科学誌『Cell』で報告した。受容体は、接触した表面にある特定の化学物質を検出し、神経へ信号を送る。これによって腕は、ただ物にぶつかったという情報だけでなく、触れているものの性質も手がかりにできる。
水中でにおいや味を感じる生物は多い。しかしタコの受容体が特に反応したのは、水に溶けにくい種類の物質だった。そうした物質は、獲物の体や岩の表面に残りやすい。研究者たちは受容体を細胞に発現させて電気的な反応を測り、さらにタコ自身が化学物質を塗った水槽の床にどう反応するかも調べた。
結果は興味深い。タコは、化学物質がある部分を吸盤で探索し、そこに特有の反応を示した。目で獲物を見つけるだけでなく、腕が接触した表面を調べることが採餌行動に役立っていると考えられる。研究チームはこの感覚を、英語で taste by touch、触れることで味わう感覚と表現している。

ガラスに押しつけられたタコの吸盤を下側から撮影したもの。吸盤の表面が物に接触する。 写真・出典:Betty Wills(色調補正:Togabi) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。
この仕組みが便利なのは、タコの腕の神経構造とも関係している。タコの神経細胞のかなりの割合は腕に分布しており、吸盤から来る感覚情報の一部をその場で処理できる。中央の脳が八本の腕にある吸盤を一つずつ動かす必要はない。腕の神経回路と中央の脳が協力して、複雑な探索を実現している。
人間の舌の味覚とは、検出する物質も受容体の仕組みも異なる。タコが砂糖の甘さを人間と同じように感じていると分かったわけではない。それでも、岩とカニを見分けるために、吸盤で触れた相手の化学的な手がかりを利用できることは確かめられた。
岩の奥へ伸びていく腕は、柔らかな道具であると同時に、感覚を持った探索装置でもある。目が見ていない場所で、吸盤が触れたものを調べる。タコが海底の複雑な環境を生き抜く力の一つは、そんな腕の先の小さな受容体に隠れていた。
