1835年8月、ニューヨークの新聞『サン』に、信じがたい科学ニュースが載った。イギリスの著名な天文学者ジョン・ハーシェルが、最新の望遠鏡で月に生き物を見つけたというのである。
月には森林があり、バイソンに似た動物や、一角獣のような生き物が暮らしている。それだけではない。ついには羽を持つ人間のような生物が発見され、建物をつくって暮らしているとも報じられた。
もちろん全部うそだった。だが、当時の多くの読者にとって、科学的な新発見として十分に信じられる内容だった。
有名な天文学者の名前を借りた
この連載が巧妙だったのは、まったくの架空の人物を発明したわけではないことだ。ジョン・ハーシェルは実在する有名な天文学者で、当時、南アフリカの喜望峰で天体観測を行っていた。
そんな人物が大型の望遠鏡で新しい発見をしたと言われれば、読者にはもっともらしく聞こえた。
記事は、架空のアンドリュー・グラント博士が書いた報告という体裁で、既に廃刊となっていた科学雑誌の付録から転載したように装っていた。望遠鏡の構造や観測の手順についても、科学らしい言葉を並べた。
本当に地球から月面の動物を識別できる望遠鏡があったわけではない。しかし読者の多くは、当時の望遠鏡の性能を詳しく知っているわけではなかった。
月の動物から、月の人間へ
連載は少しずつ話を大きくした。初めは地形や植物、次は動物、最後には「コウモリ人間」とも呼ばれる翼を持つ人型の住民へ進む。
記事を書いたのはサン紙の記者リチャード・アダムズ・ロックだった。彼は本物の天文学研究を紹介するのではなく、読者を驚かせる物語を創作していた。
アメリカ議会図書館の解説によれば、連載は大きな注目を集め、世界各地の読者の関心を引いた。後にこの事件は「月の大捏造(Great Moon Hoax)」として知られるようになる。
科学が進歩した時代の、もう一つの顔
19世紀は望遠鏡や蒸気機関などの技術が進歩し、世界についての新しい知識が次々と広がった時代だった。科学によって昨日まで不可能だったことが可能になる。その期待が大きいからこそ、あり得ない新発見を報じる記事にも説得力が生まれた。
現代でも「専門家が発見した」という見出しだけでは、報道の真偽を判断できない。1835年の読者が騙されたのは、科学への関心がなかったからではない。むしろ科学の新発見を知りたいという気持ちを、新聞が利用したのである。
月にコウモリ人間が住んでいるという記事が、単なる創作ではなく科学ニュースとして世界を驚かせた時代があった。